大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した高樹澪さん(64)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。
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「自分の意思に反して顔面がピクピク動いてしまい、それでも演じなければならない。こんな状態では、もう女優はできないという絶望感でいっぱいでした」
片側顔面痙攣に苦しんでいた当時を振り返るのは高樹澪さん。
’82年、井上陽水作詞作曲の『ダンスはうまく踊れない』をリリースし、80万枚のセールスを記録。その後、映画やドラマでも主要な役を演じてきた高樹さんが病魔に侵されたのは’99年のこと。
「離婚する直前でした。最初は顔にチック症状が出て『ストレスから?』と思い、事務所の社長から紹介された鍼灸院に通ったり、民間療法を試したりしたのですが」
離婚に際し、元夫との共通の友人たちから誤解を受け、精神的にも疲弊していた時期だった。
「心療内科を受診すると、原因はメンタルの不調からくるものという診断で睡眠薬を処方されましたが、これは誤診でした」
’02年に撮影した映画『チルソクの夏』の現場では、顔の痙攣が止まらなかった。監督は何も言わずに粘り強く「顔が動いていない」一瞬のタイミングを狙い何度も撮り直しをしてくれたという。
「目や顔の動きで表現をする女優にとっては命取りです。キャストはもちろん、スタッフやエキストラの方々を長時間待たせてしまい落ち込みが激しくなって。ある日、とうとう所属事務所の社長に電話1本で『もう辞めます』と引退を告げたのです」
「引退宣言」をしてからは仕事の重圧から解放されたが、症状は改善せず、心療内科に通いながらラーメン店やパチンコ店といった畑違いのアルバイトを経験した。
「事務所側は『休業』ということで仕事のキャンセル手続きに追われたそうで。私も『辞める』と告げたころは寝ても覚めても顔が動くようになっていて、眠ることもままならず。また、まひしているため、水を飲むと口が閉じないのでダラダラあふれるという不便な状況もあり、相当追い詰められていたんです」
芸能界から遠ざかっていた’06年のある日、古い友人から「名医がいる」と脳神経外科医の清水克悦氏を紹介されたことが転機に。
「『厄介な腫瘍をスルリと切除した名医だから』という説明でした。当時、東京・立川の病院に勤務していた清水先生の外来を受診すると、予約で埋まっているはずが『再来週オペの空きが出たから』と、トントン拍子に予約が取れたのです」
症状が現れてから9年、このとき初めて「片側顔面痙攣」という診断が下された。女性であれば10万人に十数人の確率で発症する難病で、痙攣の原因はストレスにより顔面神経が本来の位置から下垂し、脳の動脈に癒着してしまうことからくるとの説明だった。
「血管が動くたびに顔面も引きつって動いてしまっていたのです。ストレスからではあるのですが、物理的な原因もあったということ。このとき先生からは『患ってからが長いから早く手術したほうがいい』と促されて。開頭手術ということで、迷いはありました」
脳動脈と顔の神経の癒着を剥離するため、頭蓋骨を削る──。手術の成功率は70%だったが、国内の症例でオペ中に亡くなったケースがあったと聞かされたことも不安を増幅させた。
「『体にメスが入るなんて!』と母に相談したら大反対されていたはず。ですが幸運なことに名医が執刀してくださるという、こんなチャンスはないのだと理解し、“まな板の上の鯉”になった気持ちで腹をくくりました」
’06年6月、オペは5時間かかり、麻酔から覚めた瞬間、執刀医の後ろに研修医が十数人いたことは高樹さんを驚かせた。しかし「名医に執刀してもらえたのだから」と気持ちをチェンジ。間もなく「成功した」ことを実感したという。
「術後、麻酔が切れた夜に包帯が巻かれた顔を鏡に映してみたのですが、顔が動かない!『うわー、こんなにあっけなく動かなくなるのなら、私は長年何に耐えていたんだろう!』って」
脳や頭蓋骨に関わるオペというから、相当な激痛に見舞われたのではと思われがちだが、痛みはさほど感じなかったという。
「実は頭蓋骨って神経が通っていないために痛みがないのです。脳動脈も痛みに鈍感なので、もわっとしているだけでした」
「意に反して顔が動く」症状に悩まされはしたが、9年間抱えてきた脳の疾患では激痛にさいなまれる経験はなかったのだ。