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7月某日 北イタリア・パドヴァ

先日、日本から持って来た岩合光昭さんの猫番組の録画を見ていたら、どこかの国の港で、周りに馴染めずに悉くいじめられてしまう猫というのが映っていました。どこぞの地域からひとりで迷い込んできて、まだ周りにその存在が認められていないのだと波止場の親父は言っていましたが、そういえばうちの前の川でも、生まれたアヒルの子供の集団からあぶれている一匹がいて、アンデルセンではありませんが、皆と一緒になろうとすると「こっちくるな!」といじめられているのを見た事があります。

動物達の生態のそんな断片を見ていても、いじめの心理というのが人間特有の後天的に身に付けた心理ではなく、本能レベルのものであることがよくわかります。

うちの子供も海外の現地校を点々とし、時にはやはりクラスのジャイアン的な存在にいじめられたりもしているのを見てきましたが、人間の場合は精神性の生き物ですから、それぞれの環境に宗教経由で根付いている倫理観や、国民性によってその「いじめ」の質も変わってくるようです。

私の暮らしているイタリアのような、ラテンの国での「いじめ」はどちらかというと地中海性気候のようにカラッとしていて、具体的で、いつまでも長引いたりしないのも特徴かもしれません。いじめられる側も、いつまでもその状況に耐え続けている事はなく、最終的には家族に告発をします。親たちは、自分の子供がその環境に合わないと思うと、積極的に他の学校に子供を転校させたりもしているようです。いじめというのは人間社会では至極当たり前に発生する事であって、隠したり恥ずかしがったりする事でもなんでもないと彼らは解釈しているからでしょう。

ラテン国での「いじめ」や「けんか」がそんな様子なのは、彼らのバックグラウンドである家族の、家庭内でくりひろげられる喧嘩自体にも、怨恨を引きずらない潔さが影響しているからではないかと思われます。

例えば夫婦喧嘩にしても、不服不平不満を閉じ込めておくのが苦手なイタリア人は、すぐにそのもやもやした思いを言葉に変換し、相手に向かって余す事なく放出させます。言葉だけのやりとりでは済まされず、時には皿を割ったり、相手に殴り掛かったりする人もいますが、一部始終の大騒ぎの後に、例えば何日も何週間も夫婦が口を利かず、険悪な状態を引っ張り続ける、といった事は滅多にありません。相手に対して滞っている怒り憎しみを、じっくり寝かせて発酵させるという技能が、基本的には彼らには無いのです。例外もあるとは思いますが、少なくとも私の周りの人たちに限って言えば、みなさん実に風通しの良いストレス発散術を身につけておられます。

わたしの姑と舅を見ていても、怒り極まって手にしていたパスタがテンコ盛りの皿を地面に叩き付けるような大喧嘩をし、大声選手権のようなボリュームで別れる別れないの大騒動をしておきながら、大抵最後には夫が折れて妻に平和の握手を求めます(妻に原因があっても)。そしてその後は、まるで何事もなかったかのような平穏が訪れるのです。

しかし、そんな現場に付き合わされる方はたまったもんじゃありません。かつてその目の前で繰り広げられる激しいバトルに、うんざりした私が「頼むから人前での大喧嘩はなるべく避けて下さい」と彼らに申し出たところ、答えは「喧嘩? これはお互いの胸中を告白し合うコミュニケーションだよ」というものでした。そんな親を見て育つ子供には、陰湿ないじめを操作する能力は到底身に付かないでしょう。

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そういえば、16世紀に日本へ渡ったとあるイタリア人宣教師の記録文だったか何かに、「日本の人は心にあることを打ち明けないから、考えていることがわからない。なぜなら、感情的になることは、彼らにとって美徳ではないからだ。だから私たちが日本に来て、彼らの前で感情をそのまま表に出しているのは実にみっともなく感じられる」というような内容の記述があったのを覚えています。

日本の学校で起きる「いじめ」のその背景には、この16世紀の宣教師が気がついたような日本人の国民性、つまり我慢をしたり耐えたりといった、外へ解放されない感情のメンテナンスが影響しているのかもしれないなと、「いじめ」が原因の自殺などの辛いニュースが日本から届く度に考えてしまいます。

そして、社会では盛んに「いじめ」の根源を学校から絶つべきだという声を立てていますが、果たして「いじめ」の対処は学校のみで事足りるのでしょうか。たとえそこで「いじめ」を無くす為の話し合いや会議がもうけられたりしたところで、それで本当に二度とそんな事が起こらないと、一体誰が信じられるでしょう。

教師たちは本来の目的である学問を教える以外に、子供たちの道徳や生活態度、心理状態までを目を凝らして監視し、しかも不具合が見つかればその調整さえも親からリクエストされてしまう。毎日会っているのだから、生徒たちの様子の変化くらい気がつくでしょ、と親は思うかもしれません。でも学校は、たくさんの人間があつまる社会という環境であって、教師と生徒の関わりは無償の責任感と愛で繋がっている家族ではありません。ヨーロッパやアメリカの教育機関に子供用のカウンセラーが常駐している所があるのは、そういった教師のキャパを認識しているからなのでしょう。

何にせよ、子供がいちばん自分を守って欲しいと思うのは、教師でもカウンセラーでもなく、やはり自分をこの複雑な世の中に生んで、育てようとしている親なのではないかと思うのです。でも多くの子供たちはそういった事情を報告することで、「なぜいじめられるの? あなたいったい何をしたの!?」といちばん自分を守ってもらいたい人から責めの反応をされる怖さで、危険信号の送信をブロックしてしまう傾向もあるようです。日本での「いじめ」には、社会における“恥”という要素も含んでしまっているからかもしれません。

よって、いじめられている子供たちは、家の中では、なにもかも上手く円滑にいっている振りをしてしまいます。川崎の河川敷の事件も思い出してみればそんな子供の心情がうかがえる事件でした。

いじめというものは簡単になくせるような単純なものではありません。最終的には、「いじめ」という心理とどう付き合っていくのか、どうやってそれが精神的負担にならないようにするのか、という事なのではないかと思います。そこで画期的な力を発揮するのが、子供が我慢をせずに、ありのままの悩みや心の痛みをいくらでも打ち解けることのできる、家族の存在です。子供たちが社会への適応失調信号をほのめかし始めたら、親は子供に気を使わせたりせず、ただ率直に彼らのその苦しみを受け入れ、守ってあげる事だと思うのです。

親が子供を守るという約束は、どんな生き物であっても、親が子供を生んだ時点で暗黙のうちに交わされているはずなのです。

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