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2月某日 東京

 

オリンピックのようなイベントが好きではないという昭和の時代に活躍したとある作家が、何かのインタビューで「だけどうっかりオリンピックで選手が一心不乱に競技に挑み、しかも金メダルの獲得がわかると、その瞬間、条件反射的に泣けてきてしまう。あの感覚には説明がつかない」と言っていたことがありました。もし彼が今も生きていたら、今回の羽生結弦選手の金メダルに涙していたことでしょう。

 

私もオリンピックで見るのは開幕式・閉幕式くらいで、競技をテレビで見る事は殆どありません。家族の中にひとりも運動好きがいなかったのが大きいかもしれません。なのに、子供の頃は周りと比べてちょっとだけ運動神経があった為に、地域で催される競技会では短距離競走や走り幅跳び、そして冬はスピードスケートの選手に選ばれてしまうのでした。しかし野山で大好きな虫を捕まえるために走ったり跳んだり、川で魚を捕まえるのに泳いだりするのは心地が良いのですが、勝つためにがむしゃらに先生にしごかれ、我慢とプレッシャーを抱えながら体を動かすことが自分的には納得がいきませんでした。振り返ると、それが運動嫌いになってしまった原因だと思われます。

 

だけど、私も冒頭の作家先生と同じく、うっかりテレビで何らかの競技を見てしまい、どこの国の選手であろうとその人が最高得点を得て全身全霊で喜んでいる姿などを見てしまうと、もうそれだけで涙がぶわっと噴出してしまいます。同じように、思う様な結果が出せず思い切り悲しんでいる人を見ても、涙が噴出してしまいます。感動的な音楽を聞いたり映画を見た時と同じように、言葉に置き換えられない大きな感情が動く、あれはまさに人間という生き物ならではの、不思議現象のひとつと言えるでしょう。

 

運動が人間の心を感極める効果があることを、古代の人たちも既に知っていました。古代ギリシャで生み出されたオリンピックは、そもそも隣国同士、年がら年中戦ばかりを繰り返していたのを、4年に1度だけ流血のない運動競技会に置き換えるという主旨で設けられたイベントです。開催時期前後の期間も含めて、その間はギリシャ全域での戦争が一切禁止されます。そして人々は自分たちの国や街の力を選手たちに托し、彼らが頑張る姿越しに心を奮わせ、感動し、生きていくための志気や元気をチャージするわけです。競技会の持っているこういった民衆への影響力は、最初の開催から2千5百年以上経った今も変わりません。

 

そして今更ですが、今回の平昌オリンピック競技をそれとなしにテレビで見ていて、勝利という目標があるにせよ、運動も芸術と同じ“表現”なんだということをしみじみと感じました。本当に今更なのですが。

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人生の困難や辛さを打破する可能性を優雅に表現 

前々回、こちらのエッセイで氷川きよしさんのコンサートが、野に一斉にタンポポを咲かせるような巨大なパワーを放出させているという話を書いたばかりですが、羽生選手や宇野昌磨選手の大変なはずなのに優雅な演技を見ているうちに、各家庭で、テレビ画面の前でパアッと輝いている老若男女の顔が頭に思い浮かんできてしまいました。

 

フィギュアスケートだけではありません。どんな種目の選手も、オリンピックという舞台において、それまで何年も一生懸命に積み重ねてきた努力の結果を、限られた持ち時間の中で、勝利に向けて“表現”しなければならないわけです。

 

その緊張感や覚悟は、例えば私の仕事である漫画や文筆にはそれほど問われるものではありません。机の上で時間をかけて仕上げることのできる仕事には一瞬限りの“勝負”の心構えは必要ないのです。そこが運動のようにその場限りの披露という表現と大きく違う部分です。

 

しかも運動選手たちは本番における競技の披露の一瞬に、自分の抱えている大きな緊張感に加え、周りからの期待という更に大きなプレッシャーを背負い込みながら、本来持っているはずの力を発揮しなければなりません。そこなのです。いくら何年も頑張って訓練をしてきた能力も、その場で何十キロものウェイトやハンデを背負わされれば、思い通りに体は動かなくなるはずであり、そのことは観衆も十分判っていることです。

 

さらに羽生選手の場合は、プレッシャーを打ち破る勝利への技を発揮するだけでなく、見ている人をうっとりさせる美しい芸術的表現すら可能にしてしまう、その超人性に観衆は強く胸を揺さぶられるのでありましょう。

 

頑張る運動選手や、目的の勝利を得て全身で喜びを表す選手を見て涙を流してしまうのは、人生の理想の形がそこに見えるからなのかもしれません。羽生選手が胸に下げた金メダルには、単なる勝利としての証ではなく、人生の困難や辛さを打破する可能性を優雅に美しく人々に向けて表現することのできた、その感謝の意味が強く込められているように私には見えました。

 

挫折のほうが簡単で楽な我々の人生において、容易には屈しないアスリートたちの姿が与えてくれるエネルギー。このところ色々なことで疲れていたのも起因しているのでしょうが、運動の表現力と影響力の凄さを本当に、今更ですが心底から痛感しております。