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<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>

明美にとってそれは、思い出しただけでも嗚咽しそうな程おぞましく、嫌な思い出だった。

あれは…四年生になり、学年の女子全員に嫌われる、意地悪で有名な男子とクラスが一緒になったときのこと…。クラスの副委員長でもあり、人一倍正義感の強い明美には、どうしても許せないトラブルを彼は引き起こしてしまった。

それは給食中の出来事だった…。

少し頭の弱いクラスの女子に、いつものように嫌がらせを始めたその男子が、なんと彼女の食器に、どこで拾ってきたのか干乾びたカエルの死骸を忍び込ませたのだ。その日のメニューは、クリームシチュー。何も知らない彼女は、干乾びたカエルごとシチューを口にしてしまい、その異様な感触に吐き出すなり泣き出してしまった。そんな一部始終を固唾をのんで見守っていた犯人の男子は、仲間たちと一斉に笑い囃したのだ。それでなくても気の弱い彼女は、クラス全員から笑われる嵐のような羞恥心と、カエルの死骸を口にしたという度を越した嫌悪感に動転し、泡を吹いて倒れてしまった。

普段からなにかと彼女を気遣ってきた明美は、抱き起こして医務室へ連れて行こうとしたが、それでもまだ嘲り笑う男子生徒の醜悪な顔を目にした途端、思わず『死んでしまえばいいっ!』と強く思ってしまったのだ。

放たれた毒念

その日の夕刻、件の男子生徒を襲った不幸は、数十年を経た今も同窓生の間で語られる惨いものだった。なんとその少年は、学校からの帰り道で交通事故に遭ってしまったのだ。

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通い慣れたいつもの通学路。クラスメイトとふざけながら歩いていた少年は、なにかの弾みで飛び出した交差点で軽トラックに跳ね飛ばされ、反対車線を走っていた大型トラックに巻き込まれてしまった。幸いにして一命は取り留めたものの、それからの数年間は入退院を繰り返し、その後も長いリハビリ生活を余儀無くされた。

中学を卒業する頃にはなんとか歩けるようになったが、それまでのように誰かに嫌がらせをするどころか、ともすれば虐められる存在となってしまった。

それが明美の呪詛の成せる業なのか、それとも単なる事故なのか…。少年が交差点に飛び出した原因が、あの時、反射的に明美が投げかけてしまった思いだなどとは誰も思ってはいない。当の明美が打ち明けでもしない限り、そんな心のやり取りを知る者など居るはずがない。事故を目撃したクラスメイトは、少年の行為を、少年自身の悪ふざけと口をそろえて証言したし、誰の目にも不幸なアクシデントでしかなかった。その日、少年と口論したからといって誰も明美を責めはしなかったし、仮に呪詛が巻き起こしたとしても、責めを負わせる法などありはしない。

しかし多感な少女にとって、自らを呪うには十分すぎる出来事だった。

以来明美は、「なにがあっても人を恨んではいけない」と自身をきつく戒めている。

封じる術

「強く思えば、それは起こる。ええかぇ…。人様に良からぬ念を送ったらいかんのぞね」

まだ分別もつかない少女に、妖しの術を使う祖母はいつも厳しく言い聞かせた。

「ばあさんの本当の怖さは、誰も恨まんところやろな。そうして誰も恨まん代わりに恨みの根本を殺してしまうんじゃ」

「殺す」という言葉が、明美の胸に突き刺さった。中村のおばちゃんはそう言ったが、祖母が誰かを殺したりしたわけではないだろう。それでも、確かにそう言われても仕方がないほど強力な術者だったに違いない。

『私も同じかも知れない』

そんな風に思うと、それまで懐かしく感じでいた祖母の存在を、自身に流れる妖しの血を、明美は冷たく穢れたものに感じた。

「なんにも怖がることはないんで。アレらはアンタにはワルサせんけん。…アンタに聞いてもらいたいだけよ。…可哀想やけど、アンタにはアレが見えるし声が聞こえる。ほしたら、聞いてやらないかん。怖がらんと聞いておやり」

小学校に入る頃になると、そんな風なことを祖母によく言われた。まだ幼い明美にとってそれは、まるで汚物に手を突っ込むような…おぞましく穢れた行為のように感じて仕方なかった。

しかし、そんな明美の思いとは裏腹にアレらは現れた。それは、真っ昼間のすりガラス越しに廊下を往く影だったり、見知った人の肩越しに、まるで明美を覗き込むように現れたりしたが、多くは家人の寝静まった後に部屋の隅に佇んでいた。

気配だけのこともあれば靄のようだったり、黒ずんだ影であったり、またあるときは人のような姿をしていたりもしたが、いかなる姿形をしていてもアレと知らせるおぞましい感覚が襲ってくる。明美は、現れるたびに吐き気を催すような嫌な感覚に苛まれたが、それでも何度か勇気を出して正体を突き止めようと…意識を交感したこともあった。

まず手始めは、アレの存在に気付いていることを知らせること。それは、明美が意識を向けるだけでよかった。そして耳を傾ける。中には、そうやって明美が意識を集中させるだけで消えてしまう、気の弱い陽炎もいたが、多くはくぐもった呟きか消え入りそうな囁きを発した。

しかし、そうかと思えば、ときには口汚く罵るモノや乱暴に吐き捨てる声もあり、そんな声の主はあからさまに敵意を剥き出し、金輪際関わりたくないと思い知らされることになる。逆にアレらが明美に接触を試みようとする際は、音を発したり蛍光灯を明滅させるのだが、乱暴な声の主は往々にして行動も粗暴で、中には蛍光灯を割ってしまうモノもいた。

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そんなとき明美は、祖母に教えられた光明真言を強く唱える。するとアレらは一様に怯え粗野な振る舞いが治まり静かに消えて行った。

瞑想の際にも唱えるが、遠く平安の頃より加持・祈祷に用いられた光明真言には、一切の障罪を滅して彷徨えるモノを往生させる力が秘められていると教えられた。他にも真言は多々あるが、そういった意味ではコレが一番使い勝手が良い。

“おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん”

たった24の梵字からなる呪文だが、その神秘性を重んじて翻訳されることもないまま、永く梵音のまま読誦されてきた。明美は、この音とイントネーションに意味があるような気がしている。大日如来を意味するというこの24文字が、妖しの影に怯える少女を守り育んできた。

無防備な依代

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら …」

「お姉ちゃん」

「あっ待って! 入っちゃだめ!!」

驚いた明美が目を開くと、そこにはすでに後ろ手に襖を閉めようとする美由紀の姿があった。

「えっ、なに?」

姉の思いがけなく厳しい声と表情に、母が揚げた天ぷらの入ったお皿を手に立ち竦んでいる。

「なに? どうしたの? 入っちゃ駄目なの?」

神棚の前で正座したまま、顔だけを向けた明美を、美由紀が好奇と不安の入り混じった目で見つめ返してくる。

「…あんた、入って来るなら一声かけてよ」

「危ないじゃない」という一言を呑み、油断無く妹の様子を探った。

今さっきのこと、いつものように真言を唱えて瞑想に入ろうとした瞬間。あの日、上村静江の周囲に感じたのと同じ禍々しい気配が部屋の隅に漂っているのを感じた。恐らくは、あの日消し切れなかった憑き物の残滓だろう、座敷の隅から小さな渦を巻いて立ち昇った。そう感じた次の瞬間に光明真言を唱えたのだが、そうしたとき、アレは隠れる場所を探し始める。そんなときに不用意に無防備な者が立ち入ると、その者を新しい依り代として逃げ込むことがある。

もしかしてアレが、美由紀の中に隠れはしなかったかと、明美はじっと美由紀の様子を伺っていた。

「ねぇねぇ、お姉ちゃんっていつもここでなにしてるの? なんだかおばあちゃんみたいなことしてるみたいだし。大丈夫?」

美由紀にしてみれば、父親が亡くなってから、なんだか明美が変わってしまったようで気になるのだろう…。それは母も同じなのかもしれない。だからこうして、わざわざ美由紀に天ぷらなんかを持たせて部屋に寄越したに違いない。

「えっ、私? 私は平気よ」

「お姉ちゃんは平気かも知れないけれど…。お義兄さんと亜里沙は大丈夫なの? 東京には帰らないの? お義兄さんはなにも言わないの? どうするつもり?」

至極当たり前の懸念が次々と飛び出してくる。

「…そうね、心配して当然よね。でも、私たちは平気よ。健作さんにも了解してもらってるし、亜里沙は…多分あの子は、健作よりも事情がわかってると思うわ」

「なによそれ、そんなんじゃわからないわよ。お母さんも心配してるんだから、ちゃんと説明してあげてよね」

やはり母が案じていた。この恐ろしく割り切りの良い妹が、わざわざ足を運ぶほど姉のことを心配しているはずが無い。

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「ふぁ~」

「ちょっと、あんた眠いの。さっきからあくびばっかりしてるじゃない」

時計はまだ9時を回ったばかり。さっき食事を済ませて母とおしゃべりしていた美由紀が、深夜のバラエティ番組を見るか友だちとカラオケに行くのだけを楽しみにしているお気楽なアラサー娘が、こんな時間に眠くなるはずが無い。

「うん? 眠いわけないじゃない。…ふぁぁ~」

「あ、そ。わかったから、あんたちょっとここに来て座って」

面倒臭いことになりはしないかと警戒する美由紀を、さっきまで明美が座っていた神棚の前に座らせ、背後に回り首筋から背中にかけて掌を回してみる。

『…居る。なにかが美由紀の中を動いてる』

「…ちょっとあんた、じっとしてて…。力抜いて…普通にして」

突然のことになにがなにやらわからなくなった美由紀が、無意識の内に肩に力を入れる。明美は、そんな美由紀の額に右の掌をあて、左手で背中を探った…。

「なによ、なにを始める気…。ちょっとぉ、お姉ちゃんなにやってんの?」

相変わらず口だけは達者だが、常に強気の美由紀が食事のときとは表情が違っている。なにより口とは裏腹に、目の力が失せ視線がうろたえている。

「静かに。…じっとしてなさい」

意味はわからないが、さすがに明美の勢いに気圧されたのか、立とうとしていた美由紀が動かなくなった。

「…これこれ…動くのよね。…隠れよう隠れようとするのよ…」

「…なに? 気持ち悪い。なにか居るの?…ゴホッゴホッ」

何か靄のようなものが、美由紀の首の付け根の辺りから明美の左手に引きずり出されて消えた。

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「…もう大丈夫よ。はい、立って」

「なによ、なにか居たの?」

「うん。ちょっとね…」

「なによ。ちゃんと教えてよ…」

「…ちゃんと教えてっていわれても困るのよね。うんとね、…前にここに来た人が落として行ったモノの欠片が、美由紀の中に入っちゃったのよ」

「えっなに? それって、大丈夫なの?」

「もう大丈夫よ。さっき咳したでしょ。…あんた今日、咳き込んだりしてた?」

「しないわよ。…別に風邪なんてひいてるわけでもないし」

「でしょ。…なにかが取れる瞬間って、咳き込んだりするのよ。あんた、さっき咳したでしょ。あのとき出て行ったわ。だからもう、大丈夫よ」

「はいはい。明日にでもちゃんと話すって言っといて」

普段から威勢の良い妹が、少しだけしゅんとして出て行ったのを確かめると、明美はもう一度座りなおして目を閉じた。

まず最初に、壁掛け時計が一秒を刻む音が消える。次いで、ジ~ッという蛍光灯の鳴き音がしなくなると、今度は耳の奥で小さくチ~ンッと何かが収縮していくような感覚が襲ってくる。…始まった。

すでに明美の瞑想は、見様見真似で始めたころとは比べようもなく、明確なプロセスをもって進行するようになっていた。

憑依

「憑依」と言うと、何者かに取り憑かれ、およそ人間とは思えない言動をしてしまう状態を連想する。その多くは、ストレスや体調不良を原因とする変化だが、時としてなにがしかの干渉によって引き起こされている場合もある。真印さんのサロンには、そのような状態に悩む相談者が訪れることも。単なる体調不良では無かったり、または、そんな体の不調すらも、なにがしかの干渉によって引き起こされている場合が少なからずあるという。真印さんが、そういう相談者に「あなたは霊媒体質(憑依体質)ね」などと伝えると、あたかも〝自分はなにか特別〟かのように思う人も少なくない。しかし、真印さん曰く「まったくそんなことはない」という。「霊媒体質などと言うと大仰に取る方がいらっしゃいますが、要は『今日はついてる』とか『ついてない』と言うようなもの。そういう具合に、人は知らないうちに『もらったり、外したり』しているものです」(真印さん)。

SILVA真印オフィシャルサイト

著者プロフィール

那知慧太(Keita Nachi)愛媛県松山市出身 1959年生まれ

フリーライターを経てアーティストの発掘・育成、及び音楽番組を企画・制作するなど、東京でのプロデュース活動を主とする。現在は愛媛県に在住しながら取材・執筆活動に勤しむ。『巳午』を処女作とする。

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