<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>
「ところで、さっきの話だけど、まだ終わってないよなぁ」
母との話は終わったが、健作との話はまだ終わっていない。母から開放され部屋に戻ってきた健作の手には、無類の酒好きだった父が残したシングルモルトとグラスが握られている。今夜は腰をすえて話すつもりのようだ。
「お父さんには申し訳ないけど、ここに来ると美味い酒にありつけるんだよな」
「…ただ呑みたいだけでしょ」
「ばか、これだって立派な供養ってもんだ。それにお義母さんも喜んでくれるしさ」
「お母さんは、片付くのが嬉しいだけよ」
「…そんなことより、さっきの話…どこまでが本当なんだ」
「絶句。…全部本当よ」
「ごめん間違えた。…じゃなくて、まだ説明してないことがあるよな」
「…そうね。お母さんに理解してもらうのは無理かと思って…」
「結局、あの不気味な噂と度重なる不幸な事故ってのは関連してるのか?」
「…していると思う」
「で、それをどうするつもりなんだ? まさか、解決しようなんて考えてるわけじゃないよな」
「解決できるなんて思ってないわ。…でも、どう関係しているのかは知りたいし、もしかしてパパの死と関わりがあるなら、なんとしても解明したいって思ってる」
「ちょっと待ってくれよ。それって、危険じゃないのか? だって、次から次へと目撃者が謎の死を迎えてるんだろ? おまえと亜里沙だって目撃者なんだぜ…大丈夫なのか? 亜里沙に なにかあったりしないだろうな?」
「心配するのは当たり前よね。…でも、どんな理由で子どもたちの霊と事故が関わっているのか…。今は平気だけれど、果たして私や亜里沙に、どんな影響があるのかないのか調べないわけにはいかないのよ」
「…わかった。とにかく、あの日おまえと亜里沙が目撃したのは不可抗力だったわけだし、今感じている不安を解消するためにも究明しないわけにはいかないんだよな。 …そういうことか…」
普通ならば声を荒げてもおかしくない…。ましてや、我が子を危険に引きずり込むことになるかもしれない…そんな極まった状況下にあっても冷静に判断する。そこが好きで一緒になったのだが、それにしても、この緊迫した場面にも冷静に反応してくれる健作が頼もしかった。
「とにかく、来てくれてありがとう。これで、明日から動けるわ。よろしくね」
久しぶりの夫婦水入らずの夜は、思い切り安堵した明美が、やや疲れ気味の健作の腕を枕に眠るというお気に入りの形で過ごした。
夢枕に立った父
「パパっ! …パパっ!」
「……」
「どうしたの? パパ…なにが言いたいの?」
「おいっ。 明美、大丈夫か?」
激しく肩を揺さぶられて目覚めた明美は、真剣な顔で覗き込む健作の様子がその寝ぼけ眼と余りにもアンバランスで、思わず吹き出しそうになった。
「なによ…。なにを朝から力んでるわけ? 良い気持ちで寝てたのに…どうしたの?」
「それが言いたいのはこっちだよ。突然大きな声出すからビックリしただろぅ…」
「私が? …そうだ、パパの夢、見てたんだ」
「なんだよ、…どんな夢だよ」
「どんな夢って…。途中で起こされちゃったし…。そういえばパパ、なにか言いたげだったのよね…」
「おいおい、それじゃぁまるで起こした俺が悪いみたいじゃん」
「そんなこと言ってないわよ…。亡くなってから始めて夢に出てきたんだけど、絶対になにか伝えたかったんだと思う。…でも、口を開こうとしなかったのよね」
「なんだろうな、お義父さんが伝えたかったことって…。ちゃんと思い出してみ」
夢の中に出てきた父。亡くなって以来、会いたくて仕方がなかった父の様子を、明美はもう一度思い返してみた。
白っぽい…霞のような曖昧を背景に立ち、久しぶりに見る父は少し深刻な顔をしていた。何を着ていたかわからない。頭髪は、かつて教え子たちに「お茶の水博士」とあだ名された、少しカールした白髪のショートボブ。この髪型が、子ども心に明美は好きだった。
「そうだ。そういえばパパ、手になにか持ってた」
「えっなにを持ってたって?」
「よくわからないのよね。…ちょっと待って…。なんとなく、普段から目にしているもののような気がするのよ。でなきゃ、もっと意識してるはずよ…。そうだ。きっとあれは本よ。そうよ、本だったわ。パパは本を持ってたのよ」
「おいおい…ちょっと待ってくれよ。本って言ったって…、なんの本かわかってるんだろうな? わかってないのかよ。そんなもん、お父さんの残した物の中でも最も困難な探し物じゃないか。…いったい、どれほどの本があると思ってるんだよ」
健作がこぼすのも無理はない。父の遺品の中で、書物・書き物の類は、おそらくは本人でさえも把握しきれないほど膨大な量にのぼる。ざっとわかり易いところでも、『日本史大系・全書』『柳田國男集・全集』『群書類従・全書』『日本原始美術・全書』『国史大全・全巻』などなどその蔵書は古書専門の古本屋ほども有るし、発掘調査の報告書の類を合わせれば…優に小さな図書館ほども有る。そんな中から、たった一冊の本を何の手がかりもなく探すなど、事件を解明するよりも困難に思えた。
「お義父さんって、哲学書も随分持ってんだな…」
「確か、大学で専攻していたはずよ」
「ふ~ん。…どうりでなにを話すときも冷静だったよな。やっぱり、その辺りからして違うんだよな…。それにしても、これ全部お父さん読んだのかなぁ」
起き抜けの会話に始まった宝探しは、お昼ご飯を食べてもまだなんの目処もたっていなかった。
まずは書斎に入り込み、壁一面に並んだ書棚を前に二人して腕組みをしたり気紛れに一冊抜き取ったりを繰り返している。
「明美ぃ、これじゃいつまで経ってもらちが明かないんじゃないか? なにか他に、もっと手がかりになるような物無いのかなぁ」
「…そうねぇ、確かにこれじゃらちが明かないわよねぇ…」
「頼むよ。明美の夢しか頼るものがないんだからな…。って、どれほど頼りないんだよ」
今にも健作は、「やめた」と一言残して出て行きそうな気配を漂わせている。
「一旦お休みしましょ。で、他になにか手がかりがないか探しに行ってみない?」
リビングに居た母をつかまえて車を無心すると、母はこの後買い物に行かなければいけないらしく父の車を使うことにした。
ガレージには父が残した愛車が、年式こそ違うが同じ車が二台、エンジンをかけられることもないまま残されている。父がこよなく愛した車はホンダ社製のライフ。排気量360ccの軽自動車だ。すでに40年以上も経たホンダライフは、もう何代目になるのだろう…。その小回りの良さと驚異的な燃費に惚れ込んだ父が、部品交換用に予備の一台を手に入れてまでして乗り続けた車だ。今となっては、その古めかしさすらチャーミングで、かなうならば明美も自分で乗りたいと思うのだが、残念ながらマニュアル車は運転できなかった。しかし健作は、今でこそAT車に乗ってはいるが、若い頃はマニュアル車でスピードを競っていたこともあるだけに父の車に少し興奮していた。
「いやぁ出来すぎだろぅ。いくらお義父さんが考古学者だからって、この車自体が骨董品どころか遺物だぜ。格好良いよ。これで表参道とか走ったら目立つだろうな」
その大柄な体を小さすぎるシートに押し込みシートベルトを締める。普段は肩越しにベルトを掴み引っ張るが、父の愛車のそれは、腰回りのみの二点式だ。そんなシートベルト一つに一喜一憂しつつ、頼りない細めのハンドルやシフトレバーの感触を確かめてイグニッションキーを回す。スカ、スカ、という絶望的な音に半ば諦めかけたが、それでも何度か繰り返すうちに、やがてズルッ、ブルッ、ブルッブルと車体を何度か震わしてマフラーから勢いよく白煙を吐き出した。
「おっ、やったね。かかるもんだなぁ。ところで、どこに行けばいいのかな?」
再びの谷川
勢い込んで車まで用意してみたものの、どこへ行くか決めていたわけではない。ただ、先日子どもたちの霊を目撃した、あの谷川には行ってみなければいけない。
危なっかしい土地勘を頼りに行き着いたそこは、四国山脈の山裾を成す里山が左右に迫る谷あいで、平野部にはまだ陽が差しているのにもかかわらずどんよりとした薄暮の中にあった。さして高くも無い山に遮られた陽差しが、足元をモノクロームの底へと引き摺り込もうとしている。
『蛇の淵』…あった。今にも朽ちてしまいそうな立て札を見付けた。あの夜、子どもたちは、この立て札の横をすり抜けて、こぼれ落ちるように谷川へと吸い込まれていったのだ。
ここで何をしていたのだろう…?
何をしていたのかはわからないが、あの日ここに年端も行かない子どもたちの霊が居たのは確かだ。そして、必ずここには、あの子たちが来なければいけなかった理由があるはずだった。
立て札に手を掛けて谷を覗く。さほど深くも無い谷は、両岸に雑木が茂り容易に川底を見せようとしない。温かい季節には下りる者もいるのだろう、下りられそうな場所を見つけ枯れ草を頼りに川底を目指した。昨夜の雨で増水したのか、思っていた以上に豊かな流れが、両岸を枯れ草で覆い隠した川底を一層の暗がりにしている。二人は、姿無き探し物を求めて川底へと下りて行った。
日本最大の活断層である中央構造線が走るそこは、衝上断層特有の幾何学的な淵と段差を幾重にも創り出している。地球の営みが創り出す奇怪な姿が、村人たちに幾つもの伝説を詠ませたことは想像に難くない。立て札に記された名称も、そんな伝説の一つをなぞらえたに違いない。
遠く三重県に端を発する白亜紀後期の堆積層は、この辺りを最西とする和泉砂岩を厚い層と成し、良質の砥石を産出すると同時に焼き物の一大産地とした。大雨でも降ろうものなら、急峻で鳴る四国山脈から流れ落ちる激しい水流によって削られた淵と、押し出された石がその上で踊ったのだろう丸く釜のように抉られた砂岩が並び、まさに『蛇の淵』と呼ばれるに相応しい景観を創り出していた。
「こんなことやってなにか見つかるのか? それにさぁ、いったいなにを探すつもりなんだ?」
「…ここに来ればとは思ったんだけど、いざ来てみるとなにを探せばいいんだか…」
あの日、亜里沙と見た子どもたちの霊が何をしていたのか…。ここに来さえすれば、きっと見つかるに違いないと、明美の中で何かが囁いていた。
朧げに浮かんだ糸口
「そろそろ戻らないか?」
まだどれほども経ってないのに健作が音を上げる。薄暮はいよいよ暗がりを増し、流れの中ほどに立つ足元も覚束なくなってきている。あても無く探し続けるには、ネガティブな条件が揃い過ぎている。
「そうね…」
痺れを切らした同行者に従おうかと腰を伸ばした明美の目に、淵の岩肌と生い茂る雑木に縁取られた谷川の空間が黒く浮き上がって見えた。
「ちょっと待って。ねぇ、こっち来て。…ここから見て。なに? この形…?」
用意周到な健作は、東京からわざわざトレッキングシューズを持ってきている。スニーカー履きの明美よりもはるかに心強い足取りで、足元の岩を選んで隣に並んでくる。
「なに? なにを見ろって言ってんだよ?」
「これよこれ。…この谷、なにかの形に見えない?」
「…う~ん、なにかの形って…俺にはただ、谷の暗がりが浮き上がったようにしか見えないけど…」
「だから、その浮き上がった形がなにに見えるって聞いてんのよ。なんだか、達磨さんっていうか…。そうよ、お地蔵さんよ。この形、お地蔵さんじゃない?」
「…ま、そういわれればお地蔵さんにも見えるけど…これがお地蔵さんの形だって言うなら、そんなものどこにだって…。ただ岩と樹が作り出したシルエットだぜ」
「そりゃそうだけど…。ほら、見て。…上流から靄のようなものが降りてくる…」
「お、本当だ。ちょっと面白いな。…そうか、山の冷気が下りてきてるんだ」
どれほどの温度差があるのだろう。すでに入山を禁じられ冬化粧を始めた霊峰・石鎚の冷気が、それでも幾らかは温かい里へと流れ出してきている。朝靄よりも濃い大気の滲みが音も無く川を下ってくるのと同時に、明美が「お地蔵さんみたい」と指さした谷川の輪郭がくっきりと縁取られていく。
「…本当だ…こうやって見るとお地蔵さんの形してるな」
さっきまで苦笑いだった健作が、思いがけず自然が創り出した説得力のある光景に言葉を忘れて見入っている。
“おん かかか びさんまえい そわか。おん かかか びさんまえい そわか。おん かかか びさんまえい そわか”
明美は全くの無意識のまま、地蔵菩薩の真言を三唱していた。
真言2
古代インドにおいて真言(マントラ)は、発願を仏に届ける呪文として重宝されてきた。日本では真言と呼ぶが、インドではマントラと呼び、覚者はよく「舟」に例える。要は「願いを届けるための道具」としているのだ。同時に、正しくマントラを使わなければ、祈りは高次に届かないとすら言われる。神道で用いる祝詞なども真言(マントラ)で、仏の名前も、それ自体がマントラなのである。「ですから、経文はもちろん、気になる仏さま、興味の惹かれる仏さまの名前などを、サンスクリット語のまま覚え、繰り返し唱えてみるのも良いでしょう。そのとき、心に浮かんでいるあなたの思いを、高い次元に届けてくれるはずです」(真印さん)。
著者プロフィール
那知慧太(Keita Nachi)愛媛県松山市出身 1959年生まれ
フリーライターを経てアーティストの発掘・育成、及び音楽番組を企画・制作するなど、東京でのプロデュース活動を主とする。現在は愛媛県に在住しながら取材・執筆活動に勤しむ。『巳午』を処女作とする。