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<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>

今でも明美は、あの、健作と二人で『蛇の淵』を再び訪れた際に味わった感覚を忘れられないでいる。確かにそこは、穢れし者の立ち入ることなど許されるわけもない正しく結界を成すスポットだった。

「あの夜見た子どもたちの霊は、もしかするとなにかに追われていたのよ。まるで子どもたちが遠足にでも行くように見えたけれど、きっとそれは見間違いなのよ。…あの子たちは急いでたんだわ。だから、私と亜里沙に見られているにもかかわらず、わき目も振らずに川底へと下りて行ったのよ」

「たしかに明美が言うように、あの川底が神聖な場所だとして…。そこには正しい霊しか入っていけないのだとしたら、子どもたちの霊は悪い霊では無かったってことだよな。でも、あの谷川の靄だけで断定するのは難しくないか?」

たしかに、あの日見た石鎚山系から滲み出した靄を神気とすれば、その中に逃げ込もうとしていた子どもたちの霊は邪悪な存在ではなく、彼らを脅かす何者かから逃れるために急いでいたのかもしれない。しかし仮にそうだとしたら、さらに謎が深まる。

「考えてみて…。昨日今日と何人もの目撃者に会ったけれど、あの人たちが今にも死にそうに見えた? 私には見えなかったわ。なにより、私と亜里沙だって元気だし…やっぱりあの子たちは悪い霊じゃ無かったのよ」

「しかし、…だとしたら、子どもたちの霊ではない他の何者かが幾つもの事故を引き起こしてるってことか?」

答えなどあるわけがない。中村のおばちゃんや京子をはじめ、苦手な叔父まで…。さらに何人もの目撃者に話を聞いて、やっと辿り着いたのが「噂の子ども霊は不幸な事故の原因では無い…かも知れない」だ。明美と亜里沙のことこそ少し安心できたが、それでも振り出しに戻った観は否めない。

「…もう一つ気になることがあるのよね。…健作、あれどう思う? 頭が痛いとか、眠れないとか、ボッーとしてるとかって話」

「うん。俺も気になってた。…でも、別に珍しい症状じゃないよな。誰もが思い当たるようなことだと思うぜ。ただ、それが一様に自殺する直前からってのが気にはなるけど。中には、以前から何度も自殺騒ぎを起こしてたって言う人も居たじゃん。これって、典型的な鬱の症状だよな…。そしてなにより怖いのは、そんな自殺衝動が狂言なんかじゃなかったっていう事だよな…」

「…鬱症状ね…」

酒豪だった父とは違い、健作は呑むのは好きでもそれほど強いわけではない。気がつくと、大抵クッションを枕に寝息を立てている。今日は一日、明美に引き摺りまわされて、書斎で本と格闘したり不慣れな谷を歩かされたりと散々だった。赤ら顔をクッションに沈めた健作にブランケットを掛けると、明美は父が残した緑表紙の手帳を取り出し、そこに並んだ懐かしい文字を何度も目で追っていた。

憑いてきたもの

それから二日、平穏な日が続いた。

基本的に明美は家に居て、時折訪ねて来る相談者のリーディングをする以外は書斎で調べ物をして過ごし、暇を持て余した健作は、父の愛車を駆ってどこかへ出かけて行く。健作は健作なりに、地元の地理を把握しようとしているようだ。

「健作、今日はどこに行ったの?」

母の作った夕食を綺麗に片づけた明美が単純な質問をする。いつもは夕刻には戻っているはずの健作が、今日は少し遅かった。別に夕飯に遅れたからといって咎めるわけではないが、なんとなく元気の無い健作の様子がちょっと気になったのだ。

「ん?…別に、…特にどこってわけでもないけどな…。そうだ、今日は大沢池の方に行った。あそこってヤバイんだろ。先日話を聞いたおっちゃんが言ってたよな。だから、ちょっと覗いてきた。ま、あれだな。先入観アリで行ったとはいえ、やっぱりある種の重さというか暗さがあるよな」

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自分では、肯定するつもりで言っているのだろう。自称「ノーマル」な健作は、この手の感想を聞かれると、居るとか居たではなく重いとか暗いといった表現で表そうとする。

「なに暢気なこと言ってるのよ。わざわざそういう処に行かないでよね。それでなくてももらいやすいんだから。…どうせまた、なにかもらってきてるんでしょ。だからなのね。元気が無いと思った。やっぱりそういうこと…。健作、今日はお風呂にちゃんとお塩入れて入ってね。でないと身体が休まらないわよ」

明美と結婚して以来、風呂は単なる入浴の場ではなくなっている。言うまでも無く一日の疲れを癒す場所であり体を洗う場所なのだが、明美にとっては貴重な瞑想の場でもあり、そんな明美と暮らしを共にする者にとっては外界で引き寄せてしまった穢れを祓う重要な場所にもなっていた。

脱衣所には、常に五キロ入りの食塩の袋が置いてある。これは、東京のマンションも同じだ。脱衣所の鏡の下、まだ封を切ってないシャンプーやトリートメントが並んだ棚には食塩が入った広口ビンが常備されている。健作は、広口ビンの蓋を回すと手を突っ込み、気になる部分に刷り込むようにしながらバスタブに身体を沈めた。

肩が凝っていれば肩に、風邪を引いたら喉から胸にと刷り込みながら入浴するのだが、それだけで翌朝はすっきりしていたりするから不思議だ。言われたからではなく、半ば習慣化してしまった塩湯を済ませて部屋に戻ると、すでに入浴を済ませた明美が敷布団の上に正座をしてあらぬ方角を睨んでいた。

そこにいたもの

「明美、…どうした?」

声をかけても返事もしない。こんな感じのとき、明美は異界の淵を覗いていたり声無き言葉に心を傾けているのだが、そうとは知らない人たちには鼻持ちならない傲岸不遜な女として印象付けてしまったりする。健作も、そのあたりの事情は十分に理解しているつもりだが、それでも時折は腹が立ったりする。そんなとき健作は、明美を見ないし意識もしないようにしていた。

「…ねぇ、なんともない?」

にもかかわらず、めずらしく明美が口を切った。話しかけておきながら、健作の方は見ようともしない。

「ん? なにが?」

「…身体とか、気分とか…お風呂入ってなにか変わった?」

「ん? 特になにも変わらないけどな。…ちゃんと塩は使ったぜ」

そんなやり取りをしながらも、明美はずっと同じ天井近くの壁の一点を見ている。いったい何を見ているのかと、明美の横に座り視線の先を追ってみた。

「やめて! 見ないで!」

思いもよらぬ強い口調に、見ようとしていた辺りを上滑りした視線があらぬ方向を彷徨っている。

「なんだよ。…どうしたって言うんだよ」

健作の口調までがきつくなった。

「ごめん。そっちを見ないで。…見た? 居たでしょ」

「ん? なんだよ。なにが居るってんだよ」

彷徨っていた視線が、何者かを探そうとしている。

「見ないでって言ってるでしょ。…どう? 居た? 居ない?」

見て欲しいのか、見てはいけないのかわからない。

「…見ちゃいけないっていうから見れてないけど…。…どこだよ、別になにもなかったと思うぜ」

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どうやら明美が、焦点を合わせず視界の端に捉えているのは、幅4メートルほどの道路を挟んだお向いの庭先辺りだ。時刻は、午後10時。住宅街とはいっても、かなり郊外に位置するこの辺りは人通りも絶えてグッと寂しくなる。

郊外の住宅特有の、それなりに凝った造りの庭先には、見事に背丈を揃えた槇の垣根の端に、見る人が見れば褒めるに違いない大きな自然石が突き出していた。石の種類こそ定かではないが、誰かに聞いた「表情のある石」らしきそれは、垣根から突き出た部分がちょうど人が座れるほどに平らになっている。

薄暗い闇を照らす街灯が、辺りをぼんやりと明るくしている。

「あそこ、…見ないようにして見てみて。…男の人が座ってるでしょ…」

普通人の能力しか持たない「ノーマル」な健作には、とても難しいリクエストだ。

「…別に誰も居ないぜ…」

「そう…やっぱり見えないか…。見ないでね。あそこに健作が座ってるの」

結婚して10年になる。慣れているはずだったが、それにしてもこうわけのわからないことを言われると混乱する。

「へぇ、あそこに俺が居るんだ? 残念ながら俺には見えないけど。…ちょっと行ってみようかなぁ」

見えないのは仕方が無い。ただ、そこに何者かが、ましてや自分が居ると言われれば、見ることは叶わなくとも触れるものなら触ってみたい。本音だった。健作は、怖いもの知らずというかお調子者とでも言おうかそういうところがある。

「ふざけないでよ。あの男、こっちを探ってるわ。だから目を合わさないで」

「えっ、こっち見てるのか?」

「ううん。見てないわ。さっきから、素知らぬ顔して横を向いてる。でも、意識はこっちを向いてる。健作に憑いて来たんだわ。で、この家に入ろうとして入れなかったのよ。だからあそこで様子を探ってるんだと思う」

「おいおい、冗談じゃないぜ。…でも、どうして入って来れなかったんだ」

「わからないわ。でも、この家には、まがりなりにもひいおばあちゃんやおばあちゃんの結界が張ってあるんだと思う。それに、役不足かもしれないけれど私も居るし…だから入って来れなかったのよ。多分、それが不思議で仕方ないんだと思う。あっ、居なくなった」

言うのと同時に、明美の緊張が解けたのが健作にもわかった。さっきまでの緊張が何だったのか、打って変わって柔らかい目で見返してきた明美に、改めてさっきまでの緊張のほどが思い知らされ逆に健作が緊張した。

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「それにしても俺が居たって…。で、俺ってどんなだった?」

「ま、健作でないことくらいすぐわかったけど、それにしても見た感じはそっくりだったわ。同じ服じゃないけれど、いかにも健作が着そうなシャツを着て下がジーンズで、髪の毛は長くて同じように後ろで括ってた」

クリエーター気取りというわけではないが、健作の髪は背中の中ほどもある。それを、出来損ないのちょんまげのように後頭部に括りつけてあった。

「しかし不思議だな。今までも連れて帰ることとかあったけど、俺そっくりの男が憑いて来るなんてことは無かったよな」

霊感のレの字も無い健作は、明美の嫌がるどこへ行っても平気なくせに、必ずと言っていいほど何かをくっ憑けて帰ってきた。しかし、それも明美が側に居るからわかることで、そんな明美と知り合う前からずっとそうだったろうし、普通の人はそんなことには頓着しない。

大抵の場合は、そんな風にくっ憑いて来る連中は大した悪さもせず、くっ憑いて来るだけ来ておいて、また知らないうちにどこかへ行ってしまうのだ。往々にして、人間と霊との交歓はこんな具合になされるのだが、それは霊が見えない人間の話だ。いくら害を成さないとはいえ、姿が見えたり、声が聞こえたりする人間にとっては気持ちの良いものではない。ましてや、見えたり聞こえたりすることが相手に知れれば、あれやこれやと無理難題を押し付けられたりもする。

今回の場合が全くそれで、知らず知らずのうちに憑かれた健作こそ呑気なものだが、そのつもりで憑いて来てみれば、意に反して家に入ることも叶わなかったアレにしてみれば気が気ではない。何によって健作が守られているのか? それは、そのまま自分たちにとって脅威にも成り得るわけで、一体何が阻んでいるのか正体を突き止めたくなったのだろう。そうして家中を探っているところに、奇妙な女が現れた。それが明美というわけだ。しかし、それはそれでアレの興味は満たされたに違い無い。だからこそ姿を消したのだと明美は思うことにした。

夢に現れたもの

「ま、いいじゃない。特に悪サされたってわけじゃないし、とにかく出掛けるのはいいけど、今日みたいに変なところには行かないでね」

その夜は、なんだか出鼻を挫かれたようで酒を飲む気にもなれず、どちらともなく横になると押し黙ったまま目を閉じた。

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“一で俵踏まえて 二でにっこり笑ろて 三で酒造って…”

いつもの瞑想ではなく、確かに夢だということは見ていながらわかっていた。明美の夢の中で、あの日谷川で見た子どもたちが歌いながら逃げ惑っていた。

夢の中の明美は、子どもたちに懸命に声をかけるのだけれど、ほんの少ししか離れていないにもかかわらず、必死で叫ぶ明美の声が聞こえた風でもなく子どもたちは一目散に駆けていく。その懸命に逃げる後ろ姿を見送る明美の耳に、獣の息遣いというか怖気立つような気配が迫ってくる。振り向いてはいけないと思いつつも振り返ると、マントのように長い影を引き摺った赤黒い陽炎が三体、ゆらゆらと揺れながらもの凄い勢いで近付いてくる。顔があるべき場所に顔は無く、腕も足もなく、あるべきそこから長い紐状の影を前後させながら宙を漂い来る姿は、思い出しただけでも怖気立つほど不気味だった…。

除霊

一般的に、好ましからざる霊を取り除くことを「除霊」と言う。ときに霊は、憑いた者を様々な災難に見舞わせたり、健康を害する霊障を引き起こす。真印さんのもとには、そんな霊障に悩まされる相談者からの、除霊の依頼が後を絶たない。真印さんは「簡単なものは相談者に告げる以前、リーディング中に取り除いてしまう」らしいが、中には一筋縄でいかないケースもある。取り憑いた好ましからざる霊が、引き剥がされまいと激しく抵抗するのだ。憑いた人間の意識の奥底にまで潜り込み、頑なにへばりつこうとする。真印さん曰く「頑なな憑き物を無理矢理に引き剥がそうとすると、相談者の意識そのものが霧散しかねない状況に陥ってしまうこともある」という。そんなとき真印さんは、少し様子をみるという。「なぜなら、この手の霊は相談者自身の〝思い癖〟に巣くっているから」(真印さん)。真印さんのいう「思い癖」とは、心の傾向のこと。どんなことに対してもネガティブに捉える、他人を妬む、不要に自分を卑下し卑屈な態度をとる、お金でしか物事の価値を計れない…などなど。「その思い癖を直さなければ、いくら私が霊を引き剥がしたところで、また他の霊に必ず取り憑かれてしまうから」(真印さん)。つまり、自分自身の「思い癖」を改めることこそが「除霊」の第一歩なのだ。

SILVA真印オフィシャルサイト

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