_dsc56451日1枚のペースで4日で1組が完成していく。泰子さんは菜箸を持ち、それで白紙上に字の位置を示しながら、翔子さんの隣に座り続けた。

叱ってはまた泣き、休憩し、また書き続ける。そのうち、一つ一つの文字としてはアンバランスではあっても、ひと塊で見ると、一種、凄味さえある作品が生まれようとしていることに泰子さんは気づいていた。

般若心経を書くには、楷書の基本となる右肩上がりを理解させなくてはならない。

しかし、「上がる」「下がる」の概念を理解できない翔子さんに、泰子さんはこの「右肩上がり」を理解させるため、来る日も来る日も翔子さんと手をつなぎ、坂道を歩いたという。

「上がるという感覚を具体的に体で覚えさせるためでした。

このときは将来、どこかで個展を開催するなんて夢にも思わなかったので、金の罫線、銀の罫線、赤の罫線と3組の般若心経を作ったのですが、金と赤を紛失してしまったのが残念でなりません」

このように坂道だけではなく、泰子さんは、翔子さんに文字のイメージを伝えるため、実物や、絵、写真などを見せたり、言葉を駆使して理解できるよう尽くす。

「『飛翔』ってなに? 大空にこうやって羽ばたくのよ。この丹頂鶴の写真を見て! どんな気持ちだろうね」

21歳になったころ、再び翔子さんはまったく同じ形式で般若心経に挑戦し、この3月6日の個展にも出品。書家としては十年を経て、十歳のころとは比べようもなく成熟した『般若心経』が完成した。しかし、翔子さんの作品に詳しい来場者たちは「十歳の般若心経のほうが凄みがある」と、口ぐちに言うのだから、いかに十歳の翔子さんと泰子さんの葛藤が深かったかがうかがわれる。

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