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被爆体験を持つ医師・肥田舜太郎(ひだしゅんたろう)先生。1917年広島市生まれの御年98歳。肥田先生の元には、今もなお、被爆者が健康面などの相談に訪れる。

 

「私みたいに被爆者を何千人も診ていれば、これは放射能の影響だとすぐに推測ができますが、普通の医者では、なかなか理解できない。放射能の影響は、血液や尿を調べても、はっきりとデータに出ないから、疾患との因果関係が認められにくいのです。放射能が体に入ったら、長い時間をかけて命を少しづつ蝕(むしば)む……」

 

原爆投下直後から現在まで、約6,000人の被爆者を診続けてきた肥田先生が、この70年間、一貫して被爆者に説き続けてきたことがある。それは「自分の命は自分でしか守れない」ということだ。こんな考えに至ったのは、戦後、アメリカが放射能による内部被ばくの被害を隠ぺいし、日本政府や、医師・研究者の多くも、アメリカに追随して、被ばくに苦しむ人たちを切り捨ててきた現実があるからだ。

 

「多くの人が“被爆者”と聞いたら、体に原爆の熱線を浴びて、皮膚がケロイド状になった人を思い浮かべますが、これは“外部被爆”。もっとやっかいなのは、見た目にはわからない“内部被ばく”。放射能は、非常に強いエネルギーを持っているから、少しの量でも呼吸や食べ物から体に入ると、細胞が傷つけられ、修復できないことがある。それが、がんや白血病、ぶらぶら病(体がだるくて動けない、根気が続かないなどの症状がある)など、さまざまな病を引き起こす要因となります。人は、目に見えないものは、なかなか信じません。アメリカは、それをいいことに、内部被ばくの被害をなかったことにしたんです」

 

広島に原爆が落ちた’45年8月6日。肥田先生は直後から、広島市内から6キロほど離れた戸坂(へさか)村で、被爆者の救護にあたっていた。原爆が落ちて3〜4日たったころ、被爆者に異変が起き始めた。ヤケドも負っていないのに、急に40度くらいの熱が出て、のどの様子を見ようと口をあけると、ひどい悪臭がする。扁桃腺が真っ黒になって壊死し始めている。そのうち皮膚の白い部分に紫の斑点が出てきて、口、おしり、まぶたの裏からも出血。患者が頭に手をやるとごそっと、その部分の髪が抜け落ちる。結局、そんな症状が出てから3日ほどで、みんな血を吐きながら死んでいったという。

 

「もっと驚いたのは、原爆投下から3週間ほどたったころ。ピカ(原爆)に直接遭っていない人にも、同じ症状で亡くなる人が出始めたのです。後から親類を捜すために広島市内に入って歩き回っていた人に、こうした症状がたくさん表れだしたのです。これはタダごとではない、と。でも、なんの病気かもわからないし、薬もないから手の施しようがなかった」

 

’11年3月11日、ご存じのとおり、福島第一原子力発電所の想定した事態を超える、過酷事故が起こった。

 

「私はすでに93歳でしたが、連日、呼ばれる講演会にはすべて、毎日のように、足を運びました。そこでは、いかにして放射能の内部被ばくから身を守るか、話をしました。福島でも、原爆投下のときと同じように、放射能被害の隠ぺいが始まりました。長崎大学の山下俊一医師らがいち早く福島県の放射能リスク管理アドバイザーとして送り込まれ、毎時100マイクロシーベルトまでなら外で遊んでも問題ないなどと繰り返し、これを信じた人も多かったようです。医師会も異論を言わぬよう抑えられてしまいました」

 

肥田先生は声を大にして言う。

 

「アメリカや日本は今後も原発を売っていくつもりですから、政府は放射能の影響を隠そうとします。そこからお金をもらっている学者や医者は、安全、安全だと言うが、それには耳を貸してはいけません。広島・長崎の被爆者がそうであるように、福島も長生きする人は少なくないと思います。ただ、広島・長崎の被爆者と同じで、何10年かたったころ、さまざまな苦労を背負うことになるかもしれない。少なくとも、そういうリスクがあるということを自覚して、誰かに生かしてもらうんじゃなく、自分が生きるんだ、と。そういう根性を持ってほしいと願っています」

 

戦後70年を、被ばくの実相を世に知らせるために闘ってきた肥田先生。「100まで生きてみせます」と宣言するのは、元気で長生きし、その生きざまを見せることこそが、内部被ばくが隠される現状に一石を投じることになると知っているからだ。

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