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「私は、日本人です」

 

’88年、日本からの墓参の一員としてサハリンを訪れていた樺太生まれの小川よういちさん(83)は、ユジノサハリンスクの町中で突然1人の女性から話しかけられ、歩みを止めた。

 

「本当ですか。やはり日本人はいたんですね」

 

このとき60代半ばだったという、サハリン残留法人1世の野呂静江さん(92)は懸命に訴え続けた。

 

「ずっと日本人であることを隠して、ここサハリンで生きてきました。私たちが帰国できるよう、日本政府に頼んでもらませんか」

 

サハリンは北海道・稚内市の42キロ北にある島。1905年、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度より南側が日本領となり、終戦当時まで「樺太(からふと)」と呼ばれ、約40万人の日本人が暮らしていた。

 

日本国内では’45年8月15日に天皇陛下の玉音放送があり終戦となったが、樺太では8月9日に北緯50度を越えてソ連軍が侵攻。20日に真岡(ホルムスク)にもソ連軍が海岸から上陸、すさまじい艦砲射撃が始まった。ソ連軍奇襲の直後から、日本人の退去は始まっていた。しかし、一部の人は、ソ連兵に敵とみなされて殺されないため、朝鮮人やロシア人と称し、素性を隠して生きるといった人生を強いられることとなる。

 

その後、’56年まで日ソ間の国交は断絶。’80年代半ばになると、民主化を進めるペレストロイカ政策により、サハリン訪問も一部解禁に。このとき、野呂さんと小川さんは運命的な出会いをした。小川さんは、「帰るに帰れない」事情でサハリンに残留した日本人についてあらためて知り、勤務していた日本経済新聞を休んで、残留日本人を永住帰国させるための活動を始める。

 

東京で「樺太同胞一時帰国促進の会」を発足させたころ、サハリンでも野呂さんが同胞女性たちに呼びかけ、置き去りにされた日本人の名簿作りを始めていた。そうした努力が実を結び、’90年5月、ついに12人の残留法人の一時帰国が実現。’97年には、野呂さんも三女の一家とともに永住帰国を果たした。このとき一緒に帰国した孫の長尾洋子さん(37)は、永住帰国者たちから“幸せの象徴”と呼ばれるサハリン残留3世で、今も日本で生活している。

 

「10歳ごろから、ばあちゃんが日本の小川さんたちとホテルで真剣に打ち合わせするのを黙って聞いていました。どんどん人数が増えて、ユジノサハリンクスにこんなに日本人がいたのかと、子供心に驚いたのを覚えています」

 

洋子さんが話すのは、野呂さんが残留法人の名簿作りをはじめたペレストロイカのころの思い出だ。

 

はじめて日本人として名乗り出た野呂さんは’23年2月、真岡で生まれた。10人きょうだいの長女で、17歳のとき漁船の機関士だった夫と結婚する。

 

「父は大工でしたが病弱だったので、下の9人の弟や妹の面倒を見るために、私が裕福な人と結婚したんです」

 

ところが、長男をもうけた直後の’44年、夫は兵役にいったまま行方不明に。戦後は’47年に建設業のロシア人の夫と再婚。「私はミンクの飼育場で働いて家計を支えました」。幼い弟妹を養うための2度めの結婚だったが、その弟妹と両親たちは、野呂さんを1人置いて日本へ引き上げていく。しかし、4人の子の母となっていた彼女は、帰国を断念するしかなかった。

 

その後、’97年3月、永住帰国が決まったとき、三女で洋子さんの母親である笑子さん(59)一家と帰国することを迷いなく選んだ。樺太在住者の永住帰国に際して、国から支援が受けられるのは帰国する本人と子どもの中から1人(あるいは1家族)とされているのだ。

 

「夫をその10年前に亡くしてから、私は洋子とずっと二人暮らしでした。ペレストロイカで大変な時期には、ダーチャ(畑)で一緒に作った野菜をバザールに並べて売ったりもした。だから、誰よりも洋子と一緒に日本へいきたかったの」

 

10代だった洋子さんも、祖母の提案を喜んで受け入れた。北海道の中頓別(なかとんべつ)に移住したのは、サハリン出身の町長が身元引受人になってくれたからだ。

 

2世となる笑子さんはサハリン時代と同じ看護師となった。「40近くなっての永住で、専門用語が日本語で覚えられず苦労したり、職場いじめもあったようです」(野呂さん)

 

18歳の洋子さんは温泉のフロントで働き始めたが、やはり言葉で苦労した。気持ちを伝えられず顔を赤らめていると、上司から「酒を飲んでいるのか」と叱責されたりも。そんな、ある日のこと。

 

「慰めに来てくれたのだと思っていたら、ばあちゃんが旭川への転居を決めてきたんです。そこの女性教師がロシア語に興味を持っているから、相互に教え合いながら日本語を訓練しろって。ばあちゃんは、さすがに行動力がありますよね(笑)」

 

こうして、サハリン時代と同様、洋子さんと祖母との2人暮らしが旭川で始まった。’98年、中頓別役場の職員で、帰国当初からの世話もしてくれた長尾亨さん(47)と結婚。高校1年を頭に3人の男の子にも恵まれた。野呂さんのひ孫たち、第4世代となる。

 

うれしいのは、子育てが一段落した洋子さんが、一時帰国者たちが稚内を訪れるときの通訳を始めたこと。洋子さんが言う。

 

「先日は子どもが生まれて以来、初めて1泊で参加しました。今月は2泊に増える予定です。これからも誰かのためにロシア語を役立てることができたらと思います」

 

3世である母の通訳の仕事を、4世になる息子たちが夫と応援してくれているという。70年前、サハリンに置き去りにされ、国にも見放されながら、今いる場所で懸命に生活しつつ、決して夢を諦めなかった祖母たちの強い思いは、確かに次の世代へと受け継がれている。

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