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お客さまが本当の意味でリラックスできるようにと、胎内をイメージしたサロンに施術台はたったの1台。お香がたかれた室内は照明が極力抑えられ、耳には心地よい波音のBGMが流れてくる。

 

ここは、美容家の佐伯チズさん(74)が、1日限定2人の施術をする自宅エステティックサロン。ピンク地に白い襟の施術服の腕をまくり、佐伯さんは手にたっぷりとクリームをとった。そして女性の頬を両手でそっと包み込み、“肌との対話”を始める――。

 

’03年、クリスチャン・ディオールを定年退職したその年、佐伯さんは「水とコットンと化粧水があれば十分」という佐伯式スキンケアを提唱し、初の著書で大ブレーク。美容関係だけでなく、テレビの情報番組のコメンテーターとしても活躍してきた。だが最近、見かけなくなったと感じる人も少なくないだろう。

 

じつは佐伯さんは、実質10年ほどマネジメントをまかせていた女性「Aさん」に会社を乗っ取られかけ、個人資金2億円を使途不明金のまま失う苦境に陥っていたのだ。

 

「Aが辞めたあとで知ったんですけど、Aが勝手に、『佐伯は高齢ですから』と仕事の依頼を断っていたんです。私のあずかり知らないところで新製品の開発もしていました。新規事業は失敗し、経費ばかりがかさむ。縮小するかじ取りをしたときは、後の祭りでした。登録商標の大部分、顧客情報も奪われ、すべてを失いました」(佐伯さん・以下同)

 

Aさんとの出会いは、’03年末にさかのぼる。佐伯式スキンケアで一躍“時の人”になった佐伯さんは、個人会社「チズ・コーポレーション」を立ち上げるも、スケジュールの管理から電話対応まですべて1人でこなし、電話は一日中鳴りっ放し。

 

「おまけに、それまでの私は給料をもらう立場でしたから、ギャランティの交渉ができず、コスト計算も苦手。さすがに周りから、『マネージャーを入れたほうがいいですよ』と」

 

そんなとき、あるパーティで出会ったのがAさんだった。

 

「受付をしていた彼女は、30歳くらいだったと思います。第一印象は“ちょっと鼻っ柱は強いけど、頭の回転が速い女性”。マネージャーとしていいかなと誘ったんです。’04年の年明けからウチに来てもらいました」

 

Aさんの働きぶりは、佐伯さんも認めるところだった。

 

「電話対応は慣れたもの。雑誌関係の人脈も持っているし、取材などの手配も早く、スケジュール調整も見事でした」

 

さらに、経理の経験があると聞いて金庫番もまかせる。’06年には、コットンなどを販売するために作った物販会社の副社長にAさんを据える。

 

「私は、Aのことを本当の娘のように思っていたんです」

 

佐伯さんは42歳のときに、夫・有教さん(享年52)を肺がんで亡くしている。子どもに恵まれなかった佐伯さんにとって、いつも傍らにいて遠慮なく語り合えるAさんは“家族”そのものだった。

 

周囲からオリジナル化粧品の開発をすすめられ、悩んでいた佐伯さんの背中を力強く押したのもAさんである。そして「チズビー」と名づけた化粧品が完成し、美容家としての知名度がますます上がった佐伯さんは、人生の総仕上げのような挑戦に出た。

 

「銀座にサロンをもつことが、私の夢でした」

 

’08年、銀座8丁目という一等地のビルの2フロアを借り、5つのエステルームを5階にオープン。4階には、佐伯式美容理論と技術を教えるプロのエステティシャン養成学校を作ったのである。

 

「Aがいてくれればきっとすべてがうまくいく」

 

佐伯さんはますますAさんとのつながりを強くした。会社の実印を預け、スタッフの前で、彼女を後継者にすると宣言。取締役としての仕事をまかせ、さらには養子にすることまで打診した。だが、このころから佐伯さんは“異変”を感じていく。

 

「Aはすべてにおいて自分の好きなように事を進めていたんです。会社の借入金や銀座の高額な家賃もあるし、多くのスタッフの給料もあります。むしろどんどん仕事をしたいのに、知らないうちに“引退”させられていて……」

 

そして、銀座に進出して3年後の’11年3月11日、東日本大震災が起こった。景気の悪化によって美容業界は大打撃を受け、佐伯さんも例外ではなかった。スクールは定員割れを起こした。しかも銀座のビルのワンフロアの半分を使ってオープンした加圧トレーニングジムは、多額の投資をしたにもかかわらず、男性向けに新たに作ったほうは、一日も稼働すらしていなかった。

 

経営は苦しくなっていた。Aさんから求められ、佐伯さんは合計2億円もの個人資産をチズ・コーポレーションに出資。

 

「資本金を増やさないと銀行からお金を借りられないというのが理由でした。まず1億円を出し、その1年半後にはまた1億円を求められて」

 

さすがに銀座からの撤退を考えた。しかしAさんから「先生の古希のお祝いは銀座にいる間にやってあげたいのよ」と言われると心が動いた。

 

「なんてかわいいこと言うんだろうって。もうちょっと銀座でがんばってみようと思ってしまったんですね」

 

しかしその後の“事件”が、Aさんへの不信感を決定的なものにしていく。

 

1つは、’13年7月の古希を祝うパーティだった。グランドハイアット東京で盛大に開かれたものの、発起人の半数以上がAさんの関係者。彼らの祝辞は、佐伯さんとAさんの二人三脚ぶりをたたえ、Aさんあってこそ“佐伯チズ”は完成したというものだったという。佐伯さんは来客に挨拶してまわりたくても、壇上から降りてくるなと、Aさんからくぎを刺されてかなわない。

 

「“佐伯チズ”を偶像化して、Aが代替わりすることを印象づけるようなパーティでした。私のお祝いというには違和感があって……」

 

そんな矢先、「さらに1億円を出資してほしい」と迫られた。心の糸がきれたのは、「もし銀行への借金が返せなかったらどうするの?」と尋ねたときだ。

 

「Aは、『自己破産すればいいじゃない。大阪の家を売ってもいいし』って。こんな言い方ありますか」

 

’15年7月、佐伯さんは銀座からの撤退を決めた。Aさんたちにまかせていた「チズビー」などを扱う物販会社は手離さざるを得なくなり、60以上ある「佐伯チズ」関連の商標もの大部分と顧客情報なども失った。その年の暮れ、佐伯さんはAさんの退職願を受け取った。

 

「あっけないものです。私はすべてを失い、なにより信用をなくしました……」

 

’16年のお正月は、熱にうなされながら泣いて過ごした。

 

「裏切られたことが悔しくて、情けなくて」

 

半月も家にこもり続けたが、正月休みがあければ、予約してくれたお客さまと向かい合わなければならない。けれど、それが救いになった。

 

「『きれいにしてさしあげたい』と、お客さまの肌と対話するときは、ほかのことなんて考えられない。やっぱりお客さまあっての自分なんです」

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