自らの家族を撮ったドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』や、安藤サクラ、井浦新らが好演した劇映画『かぞくのくに』など、在日コリアン2世の映画監督・ヤン ヨンヒさん(53)がメガホンを取った作品は、国内外の映画祭で高い評価を得てきた。

 

今年春には、自身の大学生活をモチーフに書いた小説『朝鮮大学校物語』(KADOKAWA)を出版したばかりだ。

 

1964年、在日コリアンが数多く暮らす大阪市生野区に生まれたヤンさんは、在日本朝鮮人総聯合会(以下・総連)の幹部を務めていた“アボジ(父)”・ヤン コンソンさん(’90年没・享年91)と“オモニ(母)”・カン サンスクさん(87)のもと、熱心な民族教育を受けて育った。

 

戦後、9万人以上の在日コリアンが、「地上の楽園」と喧伝された朝鮮民主主義人民共和国(以下・北朝鮮)に移住した。「民族の大移動」などともてはやされた一大プロジェクト。総連幹部のヤンさんの父母は、その旗振り役だった。

 

日本で生まれ育ったヤンさんの3人の兄たちも、’70年代初頭に両親の、いや“祖国”の期待に応えるようにして、海を渡った。

 

「私が6歳のとき、まず2番目の兄と3番目の兄が帰国したんです」(ヤンさん・以下同)

 

大阪朝鮮高級学校2年の夏。全国の朝鮮高校から選抜される学生代表団の一員に選ばれたヤンさんは、初めて北朝鮮の土を踏んだ。2度目の祖国訪問は、東京都小平市の朝鮮大学校に進学したのちの’84年。クラシック音楽が大好きな長兄のため、ヤンさんはCDデッキを持参した。このときのことを振り返る彼女の目には、うっすらと涙が浮かぶ。

 

「兄は双極性障害になっていました」

 

長兄・ヤン コノさんは、次兄、三兄のわずか3カ月後に“帰国”。金日成主席の60歳の誕生日に、総連の副議長の発案で、在日の若者100人がまるで贈り物のように北に送られた。その帰国団の一員に指名されたのだ。

 

「帰国の際、兄はクラシックのレコードを持ち込みました。でも、当時の北はクラシックも含むすべての西洋音楽が禁止でした」

 

違法品を所持しただけで収容所送りもありうる国。レコードを没収されたコノさんは、当局から厳しく追い詰められた。連日「自己批判」を強いられ続け、徐々に心を病んでいったという。

 

「その後、クラシック音楽は解禁され、私が持参したデッキで一緒にベートーベンを聴いたんです。薬でトロンとした目をした兄は、うれしそうでした。『これがCDの音か、俺はええ妹を持った』と」

 

後日、次兄からクラシック音楽解禁の経緯を聞いて、ヤンさんは怒りに震えた。

 

「本当に優秀だった兄をあんな姿になるまで追い込んでおいて。解禁は、トップの鶴の一声だったと。『ふざけんな!』って思いましたよ。『人の人生をどこまで愚弄すれば気がすむの!』って」

 

コノさんは’09年、父・コンソンさんが亡くなる4カ月前に、心筋梗塞で生涯を閉じた。56歳だった。

 

「祖国と呼んだ北朝鮮とは、気持ちが完全に離れるのを感じました」

 

卒業後の進路は半ば強制的に決められていた。ヤンさんは演劇をやりたい気持ちを押し殺し、しぶしぶ、母校・大阪朝鮮高校の教員に。儒教思想が根強かった昔の朝鮮人家庭。ヤンさんの両親も例外ではない。父は娘に常々「とにかく25歳までに嫁に行け」と言っていた。

 

相手は朝鮮人限定。日本人やアメリカ人はあかん。韓国籍をとった朝鮮人などもってのほかだった。家では家長の父が絶対的存在。母も父の意見に従った。そして教員3年目に3歳年上の同僚の男性教師と結婚。しかし、わずか1年半で離婚。実家に帰ったヤンさんは心に誓った。

 

「朝鮮大学校も行ったし、朝鮮学校の先生にもなった。朝鮮人とも結婚した。お務めは全部やりました。これからは私の人生を生きさせてもらいます」--。

 

離婚後、大学時代の仲間たちが立ち上げた劇団にすぐに参加した。昼間はアルバイトをして、夜は劇団の稽古にいそしんだ。

 

「でも、バイト先を探すのは苦労しました。名前でたくさん断られて。当時は本名を使うと『政治的な活動でもしてる?』とか。『なんで本名なんか使うの?』って」

 

日本式の通名を持つ在日コリアンも少なくないが、ヤンさんは本名で通した。

 

「朝鮮人としての誇りを、と育てた両親の影響は大きかったと思いますが。私としては、名前を2つも3つも持って使い分けるほうが面倒くさかった」

 

それでも、不採用ばかりが続いてめげそうになったこともある。それはあるギャラリーのアルバイト採用面接だった。ヤンさんは履歴書を差し出しながら、捨てばちな気持ちでこう切り出した。

 

「名前のことで、バイトを断られ続けて疲れてしまいました。もし、私の本名では差し障りがあるとおっしゃるなら、適当な日本名をつけてくださって結構ですので、ここで仕事をさせてください」

 

すると逆に、「何を言ってるの? 素敵な名前じゃない、大事にしなさい」と諭された。ヤンさんは顔から火が出そうだったという。

 

「卑屈になっていた自分がすごく恥ずかしかったですね。もう二度と通名を使おうなんて考えるのもよそう、と思いました。在日というだけで、拒絶されることも多いんですけど。こうやって、ありのままの私を受け入れてくれる人に出会えると、味方ってたくさんいなくてもいいんだな、と思いました」

 

30歳を目の前にして、劇団での活動に行き詰まりを感じていたヤンさんに、ラジオの仕事が舞い込んだ。それが、神戸のラジオ局でおすぎさんがパーソナリティを務める番組だった。毎週のように顔を合わせるなか、2人は意気投合。おすぎさんは当時大阪在住のヤンさんにわざわざ新幹線のチケットを送って東京に呼んでは食事を共にするまでに。

 

おすぎさんはヤンさんと出会った当初を、「最初は何をやってる人なのかわからなかったのよ。でもね、ヤンは最初から『ヤン ヨンヒ』だった。女の人で自分から『在日です』って名乗ってる人、私は初めて会った。芸能界でも在日の人、何人か知ってますけど。みんな、日本名なのよ。それで『ああ、この人はすごいな』と思ったのね」と振り返る。

 

当時、ヤンさんはラジオのギャラで買った家庭用のビデオカメラで、家族を撮影し始めていた。

 

「舞台を挫折したあと、ドキュメンタリーが面白いと思えてきて。『うちの家族の映画を作りたい』と。でも、まったくの不勉強でしたから。そんなことを話したら絶対バカにされると、誰にも相談できずにいたんです」

 

ヤンさんが、初めて思いを打ち明けた相手がおすぎさんだった。

 

「『絶対やりなさい』と言ってくださって。ニューヨークにも勉強に行きたいと話すと『あなた、そういう星なの、役割。だから借金してでも、親が反対してでも、男と別れてでも行きなさい!』って。それで私、借金して、親の反対を押し切って、男と別れてニューヨークに行きました(笑)」

 

’97年、ヤンさんはニューヨークに飛び立った。’03年まで現地に滞在し、ニュースクール大学大学院コミュニケーション学部メディア研究科で修士号を取得。

 

「雑多な民族が集まるニューヨークでは、自分のアイデンティティーを前面に出すことが武器になると知りました。それまで、自分のバックグラウンドを、どこか重荷と考えていたのが、ポジティブにとらえることができるようになった」

 

それでも、家族を、とくに北朝鮮で暮らす兄たちを撮った映像を作品として発表することに、ヤンさんは二の足を踏んでいた。それをきっかけに、兄たちに災厄が及ぶのではないか、と考えたのだ。

 

すると、大学院の恩師も、おすぎさんも「ともかく、撮れるだけ撮っておきなさい」と同じことを言った。信頼する味方に背中を押され、ヤンさんはニューヨークから大阪、そして平壌に何度も足を運んだ。こうして作り上げたのが『ディア・ピョンヤン』だ。映画は大きな反響を呼んだ。

 

「完成直後、韓国の釜山国際映画祭に出品したんですが、その直前に私は兄たちに会いにもう一度、平壌に行ったんです」

 

じつは、撮影していた映像を映画にするとはまだ話していなかった。ヤンさんは次兄・コナさん、三兄・コンミンさんにこう告げた。

 

「オッパ(お兄さん)、じつは映画、もう作っちゃったのよ。それで、来月の釜山の映画祭に出るんだよね」

 

一様に驚いた表情を見せる兄たち。しかし、それは決して拒絶の意味ではなかった。「お前、映画監督になるのか!? 映画監督になって韓国に行くって、それはお前、シブいのう! ところで、映画のタイトルはなんやねん? なに、ディア・ピョンヤン!? それまたシブいのう、さすがニューヨーク帰りは違うなぁ」。そして、2人の兄は異口同音、「ヨンちゃんにはな、俺たちの分まで伸び伸び生きてほしいんや」と続けた。

 

1カ月後、映画は予定どおり釜山国際映画祭で上映された。

 

「いろんな方から『監督は勇気がある』と言われましたけど。本当に勇気があるのは兄たち。彼らのためにも、私は今後もいい作品を作って大きな映画祭に出し続けたい。そして北の政府当局に『また、あの妹が映画にする可能性があるから、あの家族に手を出すのはやめだ』と思わせたい。釜山国際映画祭の会見で私、言ったんです。『北朝鮮政府公認の問題児になります』って。韓国の人たち、あぜんとしてましたけどね(笑)」