うっそうとした森に「ドン、ドン!」と太鼓の音が鳴り響く。ここは神奈川県秦野市の鶴巻温泉にある老舗旅館「元湯陣屋」。平日の午後3時チェックインの時間が過ぎると、お客が続々と門をくぐり、そのつど従業員が迎え太鼓を鳴らして、おもてなしをする――。

 

「この“おもてなし”にもちょっとした工夫があります。担当者がピンマイクを通して『○○様がいらっしゃいました』と言った言葉は、瞬時に文字化されて従業員全員が持つタブレットに送信されます。そうすることで、スタッフは余裕を持ってお客様をお迎えする準備ができるのです」

 

そう語るのは、女将の宮崎知子さん(40)。女性ならではのこまやかなサービスで定評のある宿だ。元湯陣屋は大正7(1918)年の創業で、今年で100周年。1万坪の敷地には露天風呂付きの18の和室がある。

 

東京から1時間足らずで小京都のような風情を体験できるとあって、1泊2食付き3万5,000円〜という料金にもかかわらず、平日でも満室になるほど。

 

いち早くITを導入し、’16年、週休3日制にしてからも、売り上げは伸び続けた。その経営手腕が評判になりメディアに登場することが増えてきたが、実は知子さんが女将になった’09年当時、旅館は倒産寸前だったという。

 

「’08年に先代の義父が急死してから人生が一変しました」(知子さん・以下同)

 

というように、知子さんは大学卒業後、大手電機メーカー系列のリース会社に勤務。大学時代から交際していた同い年の富夫さんと’06年に結婚した。

 

「長男の夫は大手自動車メーカーにエンジニアとして働いていて、旅館を継ぐとは聞いていませんでした。私もエンジニアと結婚したと思っていました」

 

結婚の翌年、長男を出産、そして’09年8月、2人目の出産予定日の10日前、義母が知子さんの入院先に訪れたときのこと。

 

「義父から経営を引き継いだ義母も、体調を崩して別の病院に入院していました。外出許可を取ってわざわざ見舞いに来てくれたのですが、旅館の経営がうまくいっていないことを打ち明けられました。『借金は10億円に膨らんでいて、大手ホテルチェーンからの買収の話もある』という内容でした。まず私に打ち明けて、頃合いを見ながら夫に伝えてほしいと言われました」

 

夫がホテルチェーンとの交渉に参加したが、相手が提示した買取り額は、たったの1万円。大正時代から続く旅館を手放すか、10億円の借金を抱えて再建するか、二者択一を迫られた。

 

「実際にホテルチェーンが運営するホテルにも泊まってみましたが、コンセプトが陣屋に合うとは思わなかった。買収の条件もよくなかったので、それならば自分たちでやろうと、お盆休みのころには決めました」

 

富夫さんは会社に辞表を出し、同年10月1日から「元湯陣屋」の4代目社長に就任。知子さんは女将になった。旅館業の経験などまったくなかった2人。義母は入院中で仕事を教えてくれる人はいなかった。そこで、従業員と仕事をするうちに、旅館が抱える課題が見えてきたという。

 

「それまでは稼働率を維持するために宿泊料金を値下げしていたのですが、料理の質を高めながら、料金を少しずつ上げることから始めました。宿泊料金を上げるためにはサービスの質も上げなくてはなりません。料理の炭を起こすだけの人、運ぶ人、お客様に出す人と、作業は分業制で効率が悪かったので、お迎えをしてから布団の上げ下ろし、食事を出して、お見送りするまで、1人がマルチでこなせるようにしました」

 

20しかない客室に対し、120人以上の過剰な人員を配置していたが、2つあった厨房を1つにして、料理を部屋出しからダイニングで食べるコースを設けるなど、作業を集約することで、従業員は40人程度に収めることができた。毎年赤字続きだったのが、3年目からは黒字に転換した。

 

そして、少ない従業員でも効率よく作業ができるように導入したのがITだった。元エンジニアの富夫さんが、顧客管理から会計まで一括管理できるシステムを作った。アレルギーの有無や料理の希望など細かい顧客情報もデータ化し、前の宿泊から短期間の場合はコース料理のメニューを変える、といったおもてなしをできるようになった。

 

さらには、業界初の週休3日制を導入。旅館を継いだ9年前と比べて、利益は2億円以上もアップした。

 

「最初の3年間、1日も休みがなかったので、正直疲れが出てきました。子どもの幼稚園の行事にも参加できなかったので、旅館は思い切って月曜はランチ営業のみにして、水曜まで休むことに。その結果、予約は週末に集中して、売り上げは反対に伸び、従業員の集中力も増してサービスの向上にもつながりました。私も子どもの幼稚園の行事に参加できたのでいい思い出ができました」

 

母の視点での経営がますますプラスにつながった、と笑う。