ロバート・キャンベルさん「還暦祝いが突然の結婚パーティに」

今年7月、自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌に「LGBTは『生産性』がない」と寄稿し、直後に谷川とむ衆院議員が「(同性愛は)趣味みたいなもの」と発言したことを受け、朝の情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)のコメンテーターとしても知られているロバート・キャンベルさん(61)は自身のブログで反論を展開。そのなかで、20年来の同性パートナーの存在を明かしている。

 

現在、東大名誉教授で、国文学研究資料館館長を務めるキャンベルさんの、カミングアウトに対する世間の反響は大きかった。

 

だか、親しい人にとっては、ずっと昔から周知の事実。キャンベルさん自身も、あえて公表する必要はないと考えていた。

 

「私は、カミングアウトをしても、しなくてもよかったと今も思っています。ただ、反響が大きく、勇気をもらったという人も多かったので結果としてよかった。杉田議員は、自分の性的指向や性自認をどう表現していいか迷っている若い人や弱い立場の人、その親や親しい人をすごく苦しめることを書いていた。だから、私の経験やバックボーンからしても、それは間違った見解だと、反論しなければならなかったのです」

 

ニューヨーク(以下、NY)市ブロンクス区。’57年9月、キャンベルさんが生まれた町だ。ブロンクスには移民が多い。彼の祖父母もアイルランドからの移民だった。

 

母は、アメリカ生まれ、法律書専門の出版社で社長秘書として働いていた。父は物心ついたときから、家にいなかった。

 

「父の不在は、私にとって自然なことでした。ただ、カソリックでは離婚を認めないため、母は離婚ができず、新たな人生を切り開くことができずにいました。それでも母は絶対に涙を見せなかったし、小さいとき僕はいつも母の味方でした。母と僕は性格が似ていて、愉快と感じる部分が同じ。だから、いつも母が楽しくなることを望んでいました」

 

13歳のときだった。サマーキャンプから帰ってきた彼に、母は突然、こう言った。

 

「ロビー、話があるの。会社の同僚のロニーと結婚しようと思うの」

 

初対面の継父は、ワイルドな人だった。

 

「アイルランド系は、貧しくても身だしなみにはうるさいものですが、ユダヤ系ということもあって、彼は自由人。カーキ色のつなぎとカットソーというスタイル。ひげを生やしていて、ゲバラみたいで、すごく明るくて」

 

彼は弁護士資格を持っていて、母が勤める出版社で、法律関係の書籍の編集者をしていた。継父は、親父風を吹かすこともなく、キャンベルさんを尊重しつつ、いろいろ教えてくれるリベラルな人。すぐに「ロニー」「ロビー」と、呼び合う仲になっていた。

 

母の再婚から1年半後に妹が生まれ、家族4人になった一家は、新しい職を求めてイギリスに渡り、その後、パリに移住。しかし、1年半ほどでアメリカに戻っている。15歳で、サンフランシスコに引っ越したころには、キャンベルさん自身にゲイである自覚はあった。

 

「中学以降、好きになるのは同世代の男の子でしたから。サンフランシスコには、性的マイノリティが集うコミュニティがあったので、僕は孤立することもなく、葛藤や悩みもありませんでした。母は、そのころから僕の性的指向を把握し、理解してくれていたと思います。高校で仲よくしていた同級生が僕のボーイフレンドだと、敏感に察知していましたから」

 

彼から電話がかかってくると、母は、キャンベルさんに代ろうともせずに、2人で楽しそうに長電話をしていたそうだ。

 

「母は、僕が大切にしている人と僕の間に入りたがる人(笑)。継父は放任主義でしたが、理解のある温かい人でした」

 

彼の性的指向をスルリと受け止め、尊重してくれた両親がいて、キャンベルさんは、その後も自分らしく人生を歩んでいく。

 

進学した高校に、アジア系の生徒が多かったことから中国語を学び、カリフォルニア大学バークレー校時代には、建築や映画などの日本文化にも傾倒していった。

 

大学3年のときには、1年間、東京に留学。谷崎潤一郎や三島由紀夫を日本語で読み、日本文学の面白さを知った。

 

「日本に関わる仕事をずっとやっていきたいと思ったんです」

 

帰国後は、ハーバード大学大学院で、江戸時代の日本文学史の構築に精力を傾けた。27歳で留学した九州大学では、2年の予定だった日本滞在が10年になっていた。九州大学の専任講師から、教師としての仕事も得て、日本文学研究者の道を着々と上っていった。

 

しかし、そんなキャンベルさんの心の内にも1つだけ、小さな引っ掛かりがあった。理由もわからぬままに失踪した実父のことだ。

 

「僕の人生の隙間を埋めるピースを探したかったんです。父が生きているのであれば、どういう人か知りたかった」

 

母に内緒で遺伝子検査をしようと思ったこともあったが、勘が鋭い母は察知してしまった。

 

「捜す権利を奪うつもりはないけれど、私は一切、関わりたくない。出会っても、私には言わないで」

 

強く断言する母を前に、キャンベルさんは心に決めた。「母が生きている間は、決して父を捜さない」と--。その母は’01年に亡くなった。

 

それから3年ほどしたある晩、キャンベルさんは、ふと思いついて、ネットで人捜しをするアメリカのサイトにアクセスした。エリアを指定し、人名で検索すると、住所がわかるサイトだった。

 

「マンハッタンの真ん中でエリア検索すると、父と同姓同名の人が15人くらい出てきました」

 

キャンベルさんは、A4判で2枚もある長い手紙を書いた。自己紹介と父親を捜している旨を記し、「もし、関心があればご連絡ください」と添えて、その15人に宛てて、夜中に投函した。

 

それから1カ月が過ぎたころ、1通のメールが届いた。

 

「ロバートですか? 私はあなたの父親です。信じられない。返事をください」

 

メールの主は、間違いなく実父だった。母の旧姓や自分が生まれた病院をメールで尋ねると、ことごとく一致したのだ。

 

「NYのホテルで会った実父は、おじいさんでしたが、すごく元気でした。スタスタ歩くし、僕より骨格がいい。3日くらい一緒にいると、言葉で言えない親近感、懐かしさがジワッと湧いてきました。父と僕は、町で見かける風景や、すれ違う人のことを話すツボがとても似ています。母と僕がそうでしたが、父も感性が同じだったんでしょう」

 

ホテルで会って、セントラルパークの自然を1時間半、散歩した。カフェで、実父の過去のことを聞いた。キャンベルさんも、自分の仕事のこと、当時すでに交際していた日本人のパートナーのことを話した。最初の手紙ですでに「ゲイである」と、書いていたのだ。

 

「しばらくして、実父もパートナーに会わせましたが、すごく仲よくしてくれるんです。母は、僕が大切にする人と僕の関係の真ん中に入ってくる人でしたが、実は父もそうなんです(笑)」

 

’11年、キャンベルさんは感染性心内膜炎で1カ月半入院し、半年後には心臓弁の手術を受けた。

 

「入院中、パートナーは毎晩、病室を訪ねてくれて、一緒に夕飯を食べ、ホットタオルで顔や足の裏を拭いてくれました。僕はずいぶんと励まされ、手術後の回復へ向かおうとする心を強くできました」

 

2人はそれまで“味噌汁が冷めない距離”には住んでいたが、入院をきっかけに、キャンベルさんが提案し、一緒に暮らし始めた。

 

「信頼できるパートナーとの暮らしは心強く、家がにぎやかにもなり、充足を感じましたね」

 

継父(’14年没)も晩年、パートナーと会っている。こうしてパートナーはごく自然に、家族の一員として認められていった。結婚式を提案したのも実父だ。

 

「なぜ、これだけ長く太く、一緒にいるのに、結婚しないんだ?」

 

実父はそう言うと、テントやケータリング、来賓の手配などもしてくれた。

 

昨年8月、実父が暮らすNY州のシャロンという町で、市長立会いのもと、キャンベルさんとパートナーの結婚式が行われた。NY州の法律に基づく結婚で、実父の家の庭にテントを張り、キャンベルさんの友人や近隣の人など30人くらいが集まって、2人の結婚を祝った。

 

日本での還暦祝いが、急きょ、結婚パーティになったのは、それからすぐのことだ。友人でもあるテレビの女性キャスターが、司会役を買って出た。

 

「ケーキ入刀です!」

 

その声に、キャンベルさんとパートナーが手を取り合って、有名パティシエのイデミ・スギノさんが作ったバースデー・ケーキにナイフを入れる。歓声が沸いた。

 

井上陽水さんは、福岡ではおめでたい席で歌われる「黒田節」をアカペラで歌ってくれた。異性婚と何ら変わらない、友人たちの温かい祝福が、キャンベルさんの胸に染みた――。

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