(写真:Fujifotos/アフロ)

安倍晋三首相は4日の記者会見で、新たな元号を4月1日に発表すると表明。5月1日、新天皇の即位とともに、新しい元号が始まる。そもそも元号とはどうやって決まるのか?

 

元号は天皇が決めるものだったが、昭和54年(’79年)に施行された「元号法」によって、内閣が決めるものとされた。「元号法」制定後の初の改元となったのが、昭和から平成への改元。今回も同じ手続きで改元が行われると考えられる。そのときの現場責任者が内閣内政審議室長だった的場順三さん(84)だ。

 

「元号は、内閣が選んだ漢文学や中国古代史を専門とする有識者から候補を挙げてもらい、最終的に絞り込んだ数個の候補案のなかから、閣議で決定するという流れで決まります。法律上は“元号は皇位の継承があった場合に限り改める”となっていますし、皇位継承もないのにあらかじめ準備しておくのは“不敬”だとなりかねない。かといって、万が一のことがあったとき、“何の用意もありません”というわけにはいかないので、歴代の室長が秘密裏に候補案を用意するというのが慣例でした」(的場さん・以下同)

 

的場さんは内閣審議室長(のちに内閣内政審議室長に改称)に就任した昭和60年(’85年)、前任者から候補案を引き継いでいたが、それを選んだ有識者が相次いで亡くなってしまった。

 

「天皇陛下が崩御された後に候補を選ぶのが建て前なので、亡くなった方の候補案は使えません。だから新たな人選と交渉を、誰にも知られないように1人で動いていました」

 

そんななか、昭和天皇の体調が急変する。

 

「昭和63年(’88年)9月19日、陛下が入院されます。そのころから、新聞やテレビの記者たちが、新元号の情報を得ようと、24時間態勢で私に張り付くようになりました。『あなたたちに話したら、こっちは首をくくらないといけない。無駄だからやめたらどうだ』と、何度も言いましたが、誰もやめませんでした。ある記者に“ブリキのパンツ”と言われたことも……。絶対に漏らさないから(笑)」

 

最終的に3人の有識者から出された「平成」「修文」「正化」の3つの候補案にまで絞り込んだ。

 

「候補案は、中華圏の諸外国を含め、過去に使われたものではないほうが望ましい。また、市区町村の名前や、一部上場企業にもないほうがいい。特定のところを応援するわけにはいきませんから。ほかの仕事もありますし、あらゆる資料を1人で調べつくすことはできません。文科省から来た審議官に絶対口外しないよう頼んだうえで、手伝ってもらいました」

 

焼き肉店や中華料理店などに同名の店がないかまで、電話帳で調べたという。

 

「私はこの3案の中で、最初から『平成』しかないと思っていました。考案者は東洋史が専門の東京大学名誉教授(当時)の山本達郎先生です。じつは何人かの候補者の中で、いちばん最後に頼みに行った方だったんです」

 

崩御1カ月以上前の段階で、3つの候補案は竹下登総理(当時)と小渕恵三官房長官(当時)に、事前に伝えられていた。

 

「竹下さんも小渕さんも一切誰にも漏らしませんでした。その時点で候補案を知っているのは、文科省の審議官も含め、4人だけです」

 

年が明けた1月7日早朝、昭和天皇が崩御する。民間の有識者を集めた「元号に関する懇談会」、全閣僚会議などを経て、新元号は「平成」に決まった。

 

「修文」「正化」の頭文字は「S」。「M(明治)、T(大正)、S(昭和)なので、Hの平成がいちばんいいと思います」という的場さんの意見も重視された。

 

「平成というのは本当にいい元号だと思います。なんとなく見ただけで意味がわかりますし、実際にそうだったかと言われると異論があるかもしれませんが、平和になるようにという願いを込めた元号なのですから」

 

「平成」を考案した山本達郎教授も平成13年(’01年)に亡くなった。竹下氏も小渕氏もすでに物故者だ。

 

「山本達郎先生は最期まで、自分の案が採用されたということを口外されませんでした。しかし、まったく関係のない方が考えたという話が、まことしやかに広まってしまっていたので……。私は’15年に初めて先生の名前を公表しました。もう当時の生き証人は私だけです。山本先生の名誉のためにも、正さなければならないと考えたのです」

 

当時の経緯から考えると、すでに「平成」の次の元号案は、数個にまで絞られている可能性が高い。

 

元号法制定に伴う要領では、元号は「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること」とされている。新しい時代に願いを込めて、どんな元号が生まれるのだろうか。