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矢野孝子さん(72)は、大阪の中津エリアを中心に、11棟の高層マンションを所有する「北村」ほか、グループ会社5社の代表取締役社長を務めている。事業は全て順風満帆。会社の総資産は150億円余! さらには、一般財団法人「南蛮文化館」の館長で、宗教法人「穂積山心願院」院主、住宅型有料老人ホーム「シニアスタイル尼崎」のオーナーでもある。

 

「人生を謳歌されているのでしょうね」という記者のぶしつけな問いに、大きな椅子に身を沈めた孝子さんは、小首をかしげて、独り言のようにこう答えた。

 

「いくらお金があっても、幸せ、ちゃうねん。でも、不幸せともちゃうねん」

 

孝子さんは、結婚経験がなく、子供なし――。29歳の時、子宮筋腫になり、子宮を全摘出している。

 

今は、母たちと囲むささやかな夕食が楽しい。そう語った孝子さんの半生を辿ろう。

 

孝子さんの旧姓は北村だ。北村家は、枯山水を配した千坪もの敷地に650坪の本宅と350坪の離れが並び立つ旧家だった。しかし、病気で子宮を全摘出したことで“北村家の跡を継ぐという使命は終わった”と、孝子さんは語る。

 

そして、孝子さんの妹が無事に男の子を出産した頃のことだった。

 

近所に所有していたプレハブに住んでいた、父方の伯母の体が弱ってきて、孝子さんが住み込みで世話をすることになったのだ。最初は、伯母もある程度は自分でできたが、やがて認知症を発症。

 

「食べても『おなかがすいた、おなかがすいた』言うて。徘徊も始まりました。何ぼ鍵かけても、夜になると出て行く」

 

その度に、着の身着のまま、伯母が行きそうなところに捜して夜道を走った。やがて昼も夜もなくなり、徘徊は休みなしに続いた。伯母の死に水をとったのは、94年。足かけ8年の介護だった。

 

数年後、今度は、尼崎の旧家・矢野家に嫁いだ母方の伯母が寝たきりに。母に頼まれて、車で介護に通うことになった。伯母は極端な寂しがりやで、孝子さんが少しでも遅くなると、機嫌が悪い。

 

1年365日、休まず通った。中津へ帰る頃には夜中だった。

 

「おしめをしても『気持ち悪い』って、自分で外す。小はまだいいけど、大がね。ベッドの端に擦り付けたり、絨毯の上にしたり、もうところ選ばずですねん(苦笑)。話すと面白いけど、さっき掃除したばかりやのにって、泣きながら掃除するときもありました。それやのに、甥や姪たちがお見舞いに来ると、伯母は上手にしゃべって受け答えするんです。それで皆、『矢野のおばちゃん、認知症でも何でもないやん』と、私に言って帰るんですわ」

 

介護しない人にはわからない苦労を、孝子さんは全部背負って、たった一人で耐えるしかなかった。介護が7年目に入ったある日、伯母が、いつになく引き締まった表情と口調で、孝子さんに言った。

 

「矢野家にはもう私しかいいへん(いない)。財産は孝ちゃんに管理してもらいたいから、養女に来てくれへんか」

 

養女になると、伯母の全財産を孝子さんが総取りすることになる。矢野家の親戚筋が黙っているはずもなく断っていたが、毎晩毎晩、口説かれた。

 

北村孝子から矢野孝子になったのは07年。案の定、すったもんだの騒ぎになったが、孝子さんは言った。

 

「尼崎に行くのが嫌になりましたが、母が『ご苦労さんやけど、また、行ったってくれる』言うんで。親戚の人があれこれ言うてきても、開き直って、もう、気にしませんでした。私は私のやることをやるだけやから」

 

それからも孝子さんは、父が亡くなった後の事業の継承に奔走し波乱の人生を歩むことになる。

 

常に、自分ではない誰かのために動いてきた。父のため、家族のために尽力して、今になってようやく自分らしいシングルライフを満喫している。

 

「この人生でやり残したことは、ただ1つ。結婚して、子供を産みたかった」

 

今の楽しみは、母と妹夫婦とともに食卓を囲むこと。それから自宅に戻って、一人静かに焼酎を飲む。それがいちばんゆったりできる時間なのだと、孝子さんは語った。

 

「女性自身」2020年2月25日号 掲載

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