■17年間磨いた専業主婦のスキルが「給食のおばちゃん」の仕事で大いに役立った
薄井さんは59年、フィリピン・マニラの華僑の家に生まれた。金物商を営む父は、頑固で封建的な考えの持ち主だった。
「私は両親の最初の子でした。でも父は、生まれたのが娘と聞いて、病院に来ることすらなかったといいます。2歳下の弟が生まれたときは大喜びしていたのに……。幼いころ、弟と階段でふざけていると、私だけが怒られた。『女のお前は落ちて死んでも構わないんだ』って。就学年齢になると、たびたび言われたのが『女の子に教育はいらない』という言葉でした」
人一倍真面目で、学業も優秀だった薄井さんだが、父に反発する気持ち、封建的な社会への反骨心を常に抱えていた。ことあるごとに、心の中では「ふざけんな!」と叫び声をあげていた。そして、痛切に感じていた。「ここにいたらダメだ、このままではダメだ」と。
だから高校生のとき、偶然見かけた国費留学生募集の告知に飛びついた。両親に黙って試験を受け、日本留学を決めた。
「『もう、こんな国には二度と帰るもんか!』、そう心に誓って、日本に来ました」 日本語学校で1年学んだのち、東京外語大に入学。卒業後は貿易会社に就職した。
27歳のとき外務官僚で1歳年上の日本人男性と結婚、日本国籍も取得。新婚当初は夫の赴任に伴いリベリアで暮らし、帰国後は一時的に広告代理店での勤務も経験。
そして30歳、長女を出産。
「私、仕事大好きだから、戻るつもりだった。でも、子供の世話をするうちに、気づいたんです。『この人を育てることが、私の最大の使命なんだ』と。もし、失敗したら、私は一生自分を責めるだろう、それは受け止めきれない。それが、はっきりわかったから、専業主婦になる決断ができた」
以後、外交官の夫について海外を渡り歩きながら家事、育児に心血を注いだ。献立は1カ月分をあらかじめ考え、献立表を作成。洗濯、掃除、買い物などの家事労働は効率を優先して動き、費用対効果を勘案しながら家計を回した。多くの主婦が敬遠するPTAやボランティア活動も、人脈作りの場と捉え、積極的に参加した。
「主婦ってね、ざっと数えても100種類ものタスク(作業)がある。それを、あらかじめ決めた時間、決めた曜日に決めたことをやるようにした。大好きな仕事を辞めて主婦になったんだから。“プロの主婦”として意地でも完璧にやり遂げようと思いました」
果たして長女はアメリカの名門・ハーバード大学に進学。 子育てから解放された薄井さんは「無理やり、退職させられたような喪失感を味わった」という。
「2つのことを考えました。1つは、もう専業主婦でいる理由はないということ。もう1つは、『将来、ママみたいになりたい』と言ってくれた娘に、一度、専業主婦になったらキャリアは持てないと思わせてはいけない、そう思った。専業主婦を経てもキャリアアップできると証明しないといけないと」
ちょうどそのころ、長女が通ったバンコクの学校から「カフェテリアで働かないか」と誘いを受ける。こうして「給食のおばちゃん」として仕事に復帰。そこで薄井さんは、17年間、磨いてきたスキルを存分に発揮した。
「カフェテリアでの仕事は、ほぼすべてが初体験。でも、献立表作りや、買い物の交渉術など、主婦時代の経験が大いに役立ちました。子供たちへの食事指導も、幼い娘の好き嫌いを克服した経験が、助けになりました」 気づけば、カフェテリアは校内にとどまらず、地域でも評判の人気店になっていた。薄井さんも一介のパートタイマーから、一気にマネージャーへと昇格を果たしたのだった。
そのような経歴と成功体験をもって日本に帰国したのは11年。52歳という年齢と、17年間の主婦期間がネックとなり、就職に難航するが……。
「それでも、なんとか会員制クラブの電話受付、時給1千300円の仕事に就くことができました」
薄井さんは持ち前の真面目さ、そして主婦時代に培った能力をフル稼働。1年後には全体の売り上げの4割を、彼女が1人で稼ぐまでになった。13年には知人を介してオファーを受け、ANAインターコンチネンタルホテル東京に転職を果たす。ここでもわずか3年で、営業開発担当副支配人に抜擢されるまでに。その後も、ラグジュアリーホテルとして名高いシャングリ・ラ東京に転職。そして18年。薄井さんは日本コカ・コーラにヘッドハンティングされる。
しかし、新型コロナウイルスの流行により失職。61歳の時だった。そんな薄井さんが次に選んだのは、スーパーのレジ打ちだった。
「レジ打ちって、思ってた以上に、私が体験したなかでもいちばん大変な仕事だった。会計だけでもすごく大変。現金、カード、電子マネー、扱い方がみんな違う。そのうえ、ポイントカードも。それらを全部、覚えないと、仕事にならないんですよ」
職場で出会った同僚のなかには、“埋もれる才能”と思える人材も。
「その難しいレジ打ちを苦もなくこなす人がいる。『ああ、もったいないな』『この人、もう一歩踏み出せば、違う世界があるのにな』って人が、いっぱいいた」
主婦たちの可能性に気づいた、ちょうどそのころだった。海外のエージェントを通して、外資系企業から「日本で新規開業するホテルの経営を任せたい」というオファーが舞い込んだのだ。それが冒頭で紹介した、「LOF HOTEL Simbashi」だ。