2011年3月11日の東日本大震災の時に災害救助犬が活躍したのを見ていて、自分達もああいう犬を育てたい——。そう思った川野悌子さん(49)は夫の信哉さん(51)と日本で初の民間の作業犬を育成する一般社団法人日本警備犬協会を設立した。現在、山梨県の山中湖近辺にベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノア(通称マリノア)たちと住んでいる。
マリノアは日本でも珍しい犬種だ。二人がマリノアを育成し始めたのは。2013年頃。震災の後に災害救助犬の育成を始めたのだが、犬には犬種によって得意な分野や秀でている才能が異なる。マリノアは鼻が利き、身体能力がずば抜けて優秀で、攻撃性が高いが人間の命令(コマンド)もよく聞く。その能力になお子さんが目をつけたのが爆発物探知だった。
最初は家庭犬のしつけをする“犬の学校”を運営していたが、やがて作業犬の育成に情熱が傾くようになり、災害救助犬の育成を始めた。
ところが、その過程で爆発物探知犬の育成にも関心を持つようになる。
「最初は災害救助用にと私たちの元に迎えた一頭のマリノア犬が、実は爆発物探知に向いていることを知ったのです」
嗅覚の鋭さと警戒心の強さから、その犬には災害救助よりも爆発物探知の方が、適正が高いと悌子さんは感じとった。
爆発物探知犬とは、VIPが参加する催しや劇場やコンサートホール、スポーツ施設や鉄道といった公共施設など、大勢の人が集まったり、行き交う場所で爆弾の有無を探知する訓練された作業犬だ。日本ではあまり知られていないが、海外では頻繁に活躍している。特に、世界でマリノアが注目されたのはIS(イスラム国)のバグダディ容疑者を追い詰めた時だったという。
「マリノアは嗅覚が特に優れた犬種です。テロリストたちが爆弾を仕掛ける時は必ず事前に現場チェックを行います。その時、爆発物探知犬が警備の中にいるとわかると、彼らはその地域を避けるというほど、専門家の間では爆発物探知犬の存在は脅威となっているんです。ロボットが一日かけて探知するのに対し、犬は一瞬で嗅ぎ分けることができるからです。つまり、爆発物探知犬が作業をしている地域には抑止力が働くのです」
とはいえ、日本で初の民間の爆発物探知犬を育てるには、さまざまな苦労があった。
「まず、爆発物には匂いがあって、その匂いを覚えさせるための訓練用のキットをアメリカから輸入する、これだけでも多くの課題をクリアしなければなりませんでした。爆発物ではなくてもその匂いを持つ物は通常、輸入が困難です。それをアメリカのメーカーに何度も頼み込んでなんとか社長さんに首を縦に振ってもらって輸入できたのです」
やっとキットを手に入れたものの、トレーニングの仕方もわからない。海外の本や雑誌などの資料を集めたり、アメリカの専門家に聞きながら手探りで始めた。
「最初に一番難しい家の中から訓練をスタートして、その犬には苦労をさせました」と笑う。
そうやって爆発物探知の出来る犬を一頭、また一頭と増やしていき、海外アーティストのコンサート会場や、海外からのプロスポーツ選手の施設周辺、海外の大統領が参加する食事会の会場など、活躍の場を広げていった。
日本はテロの少ない国なので、爆発物探知犬の必要性が実感されにくいかもしれないが、実は2021年夏に開催された東京オリンピック・パラリンピックの施設内でも十数頭の爆発物探知犬が活躍していたという。国際的なイベントになるとテロへの注意が一気に高まる。だから爆発物探知犬が警備するエリアはテロリストにとっては“避けたい区域”となる。
「明確な場所は明かせませんが、オリンピック期間中、ハンドラーを従えて都内の施設内をマリノアたちが日夜、作業していました」