■尼将軍政子は息子と実父を鎌倉から追放した
「逃げて! 大姫は、義高殿に死んでほしくはありません!」
義高の暗殺計画を知った大姫は、母の政子とともに、彼を逃亡させようと必死に説得。政子は知恵を絞り、眉目秀麗な彼を女装させて逃がそうと図ったが、鎌倉を出た所で義高は殺されてしまう。
「なぜ、なぜ、義高殿を殺す必要があったのですか。あれほど、大姫もなついていたのに」
問いただす政子に、頼朝。
「ここで見逃すと、あとでわれわれの息子の頼家が恨まれることになる。私が、かつて同じ立場だったからわかるのだよ」
黙るしかなかったが、政子は大姫の傷心を思い、義高の首を討ち取った御家人を許すことはできず、頼朝により彼は死罪となった。
深く傷ついたのは、最愛の婚約者を失った幼い大姫だった。
「大姫は、誇り高い将軍家の嫡女に生まれながら、実父により婚約者を殺されてしまう。それで、心を病んでしまうんですね。今でいう摂食障害になって、その病状はついに回復しなかった。母親として、政子の悲しみはどれほど深かったでしょう」(野村さん)
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡。翌年、政子に次女の三幡が生まれている。そして1192年、頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府が成立し、武家政権が始まる。同じ年に誕生したのが、次男の実朝だ。
「長男から次男誕生まで10年もあります。政子36歳のときで、当時としては高齢出産でした。
この時代、長男の頼家が無事に成人を迎える保証はなく、正室の子に万が一のことがあれば、妾の子が将軍になる可能性もあったのです。政子は、そんな周囲からの重圧のなか、まさに命懸けで実朝を産んだのです」(山本さん)
しかし、実朝誕生の喜びは長くは続かなかった。
1197年に大姫が心の病いの癒えることなく20歳で亡くなり、その2年後には頼朝が51歳で突然死。さらにわずか5カ月後、次女も原因不明の熱病で急逝する。
頼朝亡きあと、政子は出家して「尼御台所」と呼ばれるようになり、家督は18歳だった長男の頼家が継ぎ、2代将軍となった。
「征夷大将軍は男しか任命されません。政子は征夷大将軍にはなれませんが、幕府内で“後家”として、実質上の将軍として活動するようになる。つまり、後家とは、男女のジェンダーを超えた、公の男の領域でも活動することを許された特別な存在なんです」(野村さん)
こうして「尼将軍政子」が誕生する。同時に、頼家の独り立ちまで、時政や義時はじめ御家人たちが合議制で政治を進めることとなり、今回のドラマのタイトルでもある「鎌倉殿の13人」が誕生する。
もともと頼家は、幼少期に乳母に養われていたころから、有力な御家人の比企(ひき)一族の庇護のもとにあり、妻に選んだのも、乳母夫(後見役)で、13人の一人でもあった比企能員(ひきよしかず)の娘だった。しかし、
「頼家は、能員に操られているのではないか」
やがて、時政や義時はじめ御家人たちから不満が噴出する。
「この時代、乳母の存在は大きいんですね。子供にとっては実母か、それ以上。頼家は妻も比企一族で、周囲も比企で固められて。政子と頼家の間には、常に比企氏の存在があったと思います」(山本さん)
さらに13人の合議制もぎくしゃくとしだすなか、当の頼家が病いに倒れ危篤となったとき、時政と義時が動いた。
「このままでは比企一族に幕府を奪われる。もはや、政子の次男の実朝を将軍にするしか道はない」
これを聞いた政子が、毅然として言い放つ。
「何を悠長なことを。能員は、父上を殺そうとしているのですよ。ここは先手を打ち、比企一族を倒すのです」
そして、能員や頼家の妻などを襲撃し、殺害。ところが危篤のはずの頼家が3日後に意識を回復し、今度は逆に「時政を討て」と命じたのだった。
再び政子が動き、長男に命じた。
「そなたは、もはや将軍ではない。すぐに出家して、伊豆国へ帰りなさい」
その後、頼家は伊豆の修善寺で暗殺される。義時が手を下したとも伝えられるが、政子はどこまで知っていたのだろうか。
さらに政子は、この後、執権として横暴の目立ち始めた時政も追放してしまう。
山本さんは、
「頼家の暗殺までは、政子は知らなかったのではないかと私は思います。時政も義時も、実母の政子にわざわざ告げて手を下すとは思えません。これも悪女といわれる一因ですが、むしろ政子は、頼家のことも、『かわいそうな思いをさせているな』と、母心を抱いていたのではないでしょうか。
また、父親を追放するなど当時は絶対にありえないこと。でも、政子はそうした。それは、時政が実朝を殺して、牧の方と謀って彼女の身内を次期将軍につけようとしていることを知ったから。時政らが将軍である実朝を殺そうとするのは、さすがに実の親でも許せなかった。それに尽きます」