■歌舞伎町のバー勤めの時代、皆で大鍋料理を食べて涙が。「食の場で人の存在する尊さに」
小林さんは、1984(昭和59)年5月16日、大阪府で生まれた。
「せかいは、両親がつけてくれた本名です。よく『せかい食堂』って間違われますね(苦笑)」
弁護士の父と自宅で塾を経営する母、妹の4人家族。地元の公立小学校を卒業後は中・高と神戸女学院に通う感受性豊かな少女だった。
「生きていること自体、肩身が狭く感じていた中3の2学期でした。学校の帰り道、小説の続きを読みたくなって、初めて一人で喫茶店に入って、ココアを頼んだんです」
初めての喫茶店で緊張ぎみに座る彼女の前に、静かに置かれた1杯の温かいココア。
「これまでにない居心地のよさを感じて。人生で初めて素のままの自分を受け入れてくれた空間を見つけた! って思ったんです」
こんなお店をいつかやるんだろうな。そんな予感が芽生えていた。未来食堂のコンセプトは「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所」。その原点はここにある。
生きる意味を常に考えていた少女は、宗教や哲学に傾倒したが、受験をする意味に疑問が湧いて、突如、家出する。高3の夏だった。
「親とも友人とも連絡を断って、東京・池袋の働いていた水商売のお店で、仕事仲間とたまたま唐揚げ弁当を食べたとき、急に胸に染みたんです。こうして人と共にいることが、やっぱり私には必要なんだって。それで家に電話して『帰る』と告げました」
どこかしっくりこない生きづらさを抱え、居場所を求めてさまよう10代だったのだろう。
その後、一浪して「揺るぎなく真に真たる数学」に目覚め、志望を文系から理系に変更。東京工業大学理学部数学科へ進学した。
再び東京での一人暮らしになった彼女は、新宿ゴールデン街や歌舞伎町のバーでバイトを始める。
「歌舞伎町のバーでのバイト時代、お店の寮に呼ばれて、みんなと一緒にご飯を食べたんですが、大鍋料理を囲んで、みんなで『いただきまーす』と食べ始めたとき、なぜか涙が出て止まらなくなって。食の場で、人が存在することの尊さを感じた瞬間でした」
大学では、1年のときから学園祭でブックカフェ「きもの(不思議図書館)」を出店する。当時、小林さんは着物で大学に通っていたことから、カフェの名前になった。歌舞伎町で学んだ夜の雰囲気を昼の喫茶店に反映させたアイデアが当たり、毎年、来場者投票で人気ナンバーワンを獲得。4年生のときには、他大学の学園祭からもオファーをうけて出店するほどの人気だった。
そのカフェを手伝ってくれた男性と23歳のときに結婚。2人の子どもは現在、小6と4歳になっている。
このころから着々と「未来食堂」への道が始まったようにも思えるが、彼女自身は、食堂を開くことなどまったく考えていなかった。偏食の自分が、他人に食を提供するのは難しいと思っていたようだ。
「子どものころからずっと偏食。というか、好きなものしか食べない。ご飯と枝豆だけ延々と食べたり、大学時代はざるそばとシリアルだけで1年間。社会人になっても昼食はヨーグルトだけ、とか。にんじんにハマると、普通の人ならドン引きするようなにんじんだけを使った料理を作っていたくらいです」
当時のパートナーは、文句も言わずににんじん料理を食べてくれた。
「私はそれが普通だと思っていたんです。でも、あとになって彼に聞くと、『ビックリしたけど、普通に一緒に食べるのが、この人にとっていちばんいいんだろうと思って』と言ってくれたんです」
人をありのまま受け入れる彼の姿勢こそ、未来食堂の根幹だ。