■ジャズドラマーの父を持ち、音楽大好きに。何物にも縛られず恋愛と旅行を楽しんだ
「父は楽之と書いて、たのしといいます。ジャズドラマーで、戦前はかなり羽振りがよかったようです。収入は東大出の先生の3倍。祖母は百貨店の外商がくると、私にもワンピースを買ってくれました」
そう笑顔で語る純子さんは、1935(昭和10)年1月27日、高田馬場(当時は淀橋区戸塚町)で生まれた。母は千秋さん。弟が2人。
「私がものごころついたころは戦争で、ジャズは敵性音楽。ジャズのSP盤を聴くときは、外に音がもれないように、スピーカーを座布団で覆い、その中にもぐって聴いたものです」
ジャズを禁じられた楽之さんは、映画音楽や少女歌劇団の仕事、軍の慰問、大日本飛行協会の職員などもして生計を立てた。
やがて空襲で家は全焼。祖母や曽祖母が次々に亡くなり、楽之さんも急性肺炎でやせ衰えた。
終戦を迎えると、父の療養をかねて母の実家のある北海道へ転居。2年ほどで東京に戻ったという。
「体力が回復した父は、進駐軍相手の音楽事務所を開くんです。父は好奇心旺盛のアイデアマン。戦後で皆、自由な空気を求めているなか、バンドと手品を組み合わせたり、大流行したストリップと組んで、また当てたんです。森山良子さんの父・森山久さんやかまやつひろしさんの父・ティーブ・釜萢さんなど、いまやレジェンドと呼ばれる戦後のジャズ界のスターとも交流もありました」
そんな父が突然、音楽の仕事をやめ、「餃子荘ムロ」を開いた。純子さんは19歳。高校卒業後、英語や英文タイプを習い、商社の秘書として働き始めたころだった。
「店名の『ムロ』は、父の呼び名だったようです。音楽で米軍キャンプ回りをしていたとき、満州帰りの人たちが作る餃子と出合い、自分で皮も餡も開発。手作りするようになっていました。なぜ餃子屋か? 父は『芸能事務所では日本一になれないと思ったから』と、話していましたね」
純子さんは、昼は秘書、夜は餃子店の手伝いと多忙になり、1年ほどで餃子店に専念することに。
「仕事は午後1時の仕込みから夜中の1時まで。ただただ焼きたての餃子を食べてもらいたい一心でした。夜のクラブやディスコなんて存在すら知りませんでした」
年ごろになった娘を心配した両親は、結婚を勧めたが、純子さんは頑として受け付けなかった。