■貯めた電車賃でひとり上京し、弟子にしてほしいと直談判した
「とにかくね、子どもっつっても、体がまめ(丈夫)なんだね。私は学校帰ってくっと、山へ行って茅をとってきて。近所で炭を焼いてるおじさんがいたんです。だから、担いで帰ってきた茅を炭俵に。それすっと、小遣いがもらえたの」
祐子さんは1922(大正11)年、1男5女の6人きょうだいの上から2番目、次女として茨城県笠間市に生まれた。農業を営む実家はとても貧しかったという。
「自分のボロ話、するわけじゃないけど。父親がコレが好きでね」
こう言って祐子さん、手で酒を飲む仕草をしてみせた。
「父親は長男だったけど、家を継がずに新宅に出たの、分家だね。いくらも財産、貰わずに出たんだと思う。そのうえ、飲んべえだったから。本当にね、『ぼう』の字がないほどの貧乏、ひどかった」
連日、夕方になると飲みに出かける父。帰ってくると決まって母とのけんかを繰り返した。
「母親も黙ってればいいのに、言うんだね、『また飲んできたの?』って。そうすっと父親は『なに!』と。毎晩、母親は殴られてた。それ見るの、やっぱりつらかったね」
借金取りもたびたび家にやってきた。それも、つらい思い出だ。
「だから、親を助けようって頭っきりなかった。炭俵編んでお金貰うでしょ。すると母親が『それ、くれ』って言うんだ。貸せじゃなく、くれって。お金なくて困ってるの知ってたからね。『いいよ』って、渡しましたよ」
涙ながらに述懐する祐子さん。小学校卒業と同時に、呉服店に子守りの奉公に出た。
「父親が2年分の給金、前借りしちゃったから。帰りたくても帰れない。それでもね、1週間ぐらいは泣きました。夕方、主人の布団を敷きに2階に上がると、バス停が近かったから、家まで帰れるバスが見える。『あれ乗ったら、うちに帰れるんだな、3回ご飯食べっとこ2回で我慢するから家にいたいな』、そうやって泣きましたよ」
しかし、この奉公先で、人生を変える邂逅があった。
「隣が、レコード屋さんだったの。当時は浪花節の黄金時代。もう、朝から浪花節が聞こえてたんだ」
子守りをしながら、二代目廣澤虎造、寿々木米若、二代目玉川勝太郎ら、人気絶頂だった浪曲師たちの節を毎日のように聴いた。
「『いいな〜』と思った。それで、年季が明けて実家に戻ってから父親に手ついて頼んだんだ。『おれ、浪花節語りになりてえ。東京へやってくれ!』って」
父親は「だめだ、だめだ」の一点張りだった。
「でも、私も聞かねえから(笑)。『子ども6人もいんだから、1人死んだと思ってやってくれ!』って頭下げた。そしたら、父親も男だねぇ、『好きにしろ』ってさ」