■中村哲さんが凶弾に倒れて。「私のような人間がのうのうと生きていていいのか」と
「精神科医・香山リカ」として、多メディアでの活躍を続けてきた香山さんだったが、ここ10年、つらい経験に続けて見舞われた。
両親との死別である。
’10年に父が82歳で他界すると、母は小樽で独居を望んだという。
「私は、母を東京に呼び寄せようと何回も説得したのですが、母は『絶対にいやだ。迷惑かけたくない』と。私と弟の自主的な生き方を尊重する両親でしたから」
そして父が亡くなった2年ほどあとに、母の肺がん闘病が始まる。
「私は月1、2度、小樽に帰って母の様子を見ていました。そこでも、母は『ひとりで頑張る』と」
そんな最中の’17年、香山さんは立教大のサバティカル休暇で1年間、授業のない期間を得た。
大学の同級生の依頼で、四国に講演に出向いたときのこと。
「その彼が四国の山あいの診療所を父親から継いだことを知りました。学生時代は遊んでいるイメージでしたが、地域医療に根差しているのを見て感心したんです」
また、北海道の空港で別の同級生に声を掛けられたこともあった。
「彼は公衆衛生学の研究者でしたが、やめてオホーツク海のそばで地域医療をしていると聞かされました。1年間研修を積み、医療過疎地域で頑張っていると知り、ビックリしましたね」
香山さんは、医者として、どれだけ医療分野に貢献できてきたのかと自問自答した。
「ぜんぜん。せっかく医師免許を持っているのに、私はちっとも生かしていないじゃないかって」
まず同級生に倣うように、専門外の知識や総合診療の修得のため、母校・東京医大病院で研修を。
「血圧測定や聴診器で心音を聴くことから始め、ほとんどしていなかったことを、20代の若い先生に教わりながら、1年間、研修しました」
しかし病床の母は、教授を辞めることに大反対だったそうだ。
「母にとっては、立教大学は憧れでしたし、そこで教授職を得たことを誇りに思ってくれていました。私のキャリアに、母は満足していたんです」
だから当初は医療貢献への転身時期を、定年後と想定していた。
ところが、大きな出来事が立て続けに起きるのだ。
「’19年7月、母が87歳で亡くなりました。晩年には『あなたのやりたいことをやるのがいちばんよ。楽しみなさい』と言っていたのが印象的でした……」
その年末には、アフガニスタンで30年以上、医療、治水などの総合的な支援に尽力した中村哲さん(享年73)が凶弾に倒れるという悲報に衝撃を受けた。
「医師の偉大な先輩として尊敬していました。こんな方が非業の死を遂げ、私のような人間が、のうのうと生きていていいのかと」