■自分は養親と出会い、幸せに生きている。その現実を当事者として発信するため顔と実名を公表
航一さんは両親の愛情を注がれ、明るく、まっすぐに育った。中・高6年間は陸上部に所属し、100メートル走では県内2位に入るほどの有望選手として活躍した。
家庭裁判所に養子縁組を申し立て、認められたのは’20年12月25日のことだった。家族にとって最高のクリスマスプレゼントとなり、翌年の1月に手続きを終了。
たった一人の名前しか記載されない単独戸籍だった航一さんの戸籍に、養父母の名が加えられた。
「養子縁組前から、胸を張って“親子だ”と言えましたが、やっぱりうれしいものでした。でも、家族って戸籍でのつながり、血のつながりばかりじゃない。自分がうれしいときも、大変なときも、思いを共有して支えてくれる存在だから」(航一さん)
その年の春、航一さんは、美光さんが学校まで送迎する車中のラジオで、福岡県で起きた、ママ友に心理的に支配された母親による子ども虐待死のニュースを聞いた。
ファミリーホームで地域の子どもたちのために生きてきた両親の元で育った航一さんは、居ても立ってもいられない思いだった。
「地域のつながりがあったら、誰か子どもや親の変化に気づき、事件を未然に防げたかもしれない。何かできることがあるんじゃないかと、半ば怒りを感じて、お父さんと話し合ったところ、どちらからともなく『だったら子ども食堂をやろう』って話になって、移動の車中で即決しました。
おばあちゃんが10万円の軍資金を出してくれて、2カ月後には開始できたんです」
頼もしく育った航一さんの姿は、脳梗塞の後遺症に苦しみ、さまざまな活動から「まあ、オレはいいや……」と身を引き、元気をなくしていた美光さんにも力を与えた。
「最初は子ども食堂をやるという航一を応援するつもりでしたが、結果的にオレが応援され、また生きがいである子どもたちのための活動に、前向きに取り組めるようになれたんです」(美光さん)
さらに航一さんは今年3月、高校卒業を機に、もう一つの大きな決断をした。
「『赤ちゃんポスト』には賛否両論あるのはわかっています。でも、ボク自身、宮津の両親と出会って幸せに生きています。
いずれはその現実を当事者として発信する必要があると、ずっと感じていたんです。もちろん、顔も実名も出すことには悩みましたが、やっぱり伝わり方が違うと思って公表したんです」
その決断を、写真の中の実母が見守っているーー。