「チエさん。ここは『ぬくもりの里』の談話室やで、わかる?」
「……」
介護スタッフの細井恵美子さん(91)が声をかけるが、車いすに座ってうつむいた状態のチエさん(80)は、無言のまま。
それでも細井さんは、根気よく語りかけを続ける。
「今日はあいにくの雨やなぁ、うっとうしいな」
やわらかな京都弁を口にしながら、細井さんが自らの左手をチエさんの背中に当てたとき、ようやく彼女の首が「うん」とうなずくように、小さく動いた。
「お返事、ありがとう。元気そうやね。じゃ、お薬飲みましょか」
服薬の介助を終えると、次には隣で計算ドリルをやっている女性の元へ。
「ヤスコさん。3×2はいくつですか……違う違う、足すのやない、かけるんやで」
その後も、血圧を測ったり、入浴を終えた利用者の髪の毛をドライヤーで乾かしたりと、5人の高齢女性を相手に、一瞬たりとも休むヒマはない働きぶりだ。
10月初旬の金曜日の午前。朝から冷たい雨が降り続いており、屋外での体感温度は10度近かった。
ここは、京都府木津川市の山あいにある「山城ぬくもりの里」。特別養護老人ホームやケアハウスも併設する総合福祉施設だ。
デイサービスの談話室での光景は、一見、どこにでもある介護の現場のようだが、ほかの施設と大きく違うのは、介護職で同施設の顧問も務める細井さんが91歳で、利用者たちが80代や70代など、介護者より年下ということだ。
「今日の5人の方たちは、全員が認知症を患っていらっしゃいます。私は17歳で看護師になって74年になりますが、看護や介護の現場でずっと大切にしてきたのは会話。それは、認知症の方を相手にしたときも同じです。
私、病棟勤務のころから、ナースステーションにいるより現場が好きな、おしゃべりな婦長さんで有名やったんです(笑)。
この年やし、こんな小さな体ですから、体力では若いスタッフにかないませんが、会話なら年寄りの私でも自由にできるでしょう」
なるほど、細井さんが利用者と目の高さが同じになるまで腰をかがめ、まずは「○○さん」と呼びかけると、それまで無表情だった相手も自然に笑顔になるのだった。
同施設を運営する「らくじ会」の森山憲克社長(43)が言う。
「しかし、同じことをしても、若いスタッフでは、ああはいきません。細井さんの長年の経験と人心掌握術、加えて、やはり利用者の方と世代が近いことで、互いの距離感も近くなるようです。
うちはグループ全体で670人のスタッフがいますが、細井さんは間違いなく最年長者で、唯一無二の介護界のカリスマです」