93歳の推し活がバズり中!闇市にも浅草にも松潤ほどの男はいない!
画像を見る 一家の大黒柱だった10代のころの千恵子さん(後列)と母(左)や姉弟たち

 

■3歳から一家のご飯炊き。10歳でリヤカーを引いて魚を売り、戦後は闇市でラーメン屋を

 

1929年(昭和4年)4月6日、浅草の生まれ。

 

「12人の大家族で、きょうだいは女が3人に男が7人。父は都電の会社で働いてましたが、仕事より趣味やおしゃれが大事という人。その分、母が浅草で辻占(街頭の占い)をしたりしてましたけど、貧乏は変わらなかったわね」

 

いちばん上の姉とは、ひと回りも年が離れていた。

 

「小3で千住の借家に引っ越すんだけど、貧乏生活を嫌った長姉は、親戚の芸者の置屋に住み込みで行っちゃった。次の姉も長女の華やかな暮らしぶりに憧れて半玉(芸者見習い)になるんです。

 

だから、無骨で芸事も嫌いなあたしが家に残って、長女代わりで3歳からご飯炊きでした」

 

10歳のとき、2番目の弟が原因不明の難病になる。

 

「百日咳から両手両足が壊死して、すべての指の先を切断しました。母は41歳で産んだ末の赤ん坊がいたから、弟の入院の世話をはじめ、あたしが一家の大黒柱で働くしかなかった。だから、小学校には通ってません。

 

それからは、リヤカーを引いての魚売り。のちに退院した弟も手伝ってくれるんだけど、やっぱり疲れて泣くの。元気づけようと荒川の土手でひと休みしながら、当時はやっていた“♪泣くな妹よ”という歌を歌ってあげて。だから、今もテレビの懐メロ番組で、その歌が流れると泣けちゃうのよね」

 

ずっと快活な口ぶりだった千恵子さんが突然涙ぐみ、当時の苦労の大きさが伝わるのだった。

 

戦後も一家の働き頭が千恵子さんであるのは変わらなかった。

 

次には、北千住駅前の闇市でラーメン屋を始めた。

 

「この1杯5円のラーメンは売れに売れて、当時の大卒銀行員の初任給と同じくらい稼いで、1年で4000円ためました。でも、お金よりうれしかったのは、無職だった父が手伝ってくれたこと」

 

これで、ようやく生活も落ち着くかと思ったら、千恵子さんは思いがけない行動に出る。

 

「あたし、ええかっこしいで、小さなラーメン屋で終わりたくなかった。できるなら、東京のど真ん中で働きたいと思ったの」

 

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