■3歳から一家のご飯炊き。10歳でリヤカーを引いて魚を売り、戦後は闇市でラーメン屋を
1929年(昭和4年)4月6日、浅草の生まれ。
「12人の大家族で、きょうだいは女が3人に男が7人。父は都電の会社で働いてましたが、仕事より趣味やおしゃれが大事という人。その分、母が浅草で辻占(街頭の占い)をしたりしてましたけど、貧乏は変わらなかったわね」
いちばん上の姉とは、ひと回りも年が離れていた。
「小3で千住の借家に引っ越すんだけど、貧乏生活を嫌った長姉は、親戚の芸者の置屋に住み込みで行っちゃった。次の姉も長女の華やかな暮らしぶりに憧れて半玉(芸者見習い)になるんです。
だから、無骨で芸事も嫌いなあたしが家に残って、長女代わりで3歳からご飯炊きでした」
10歳のとき、2番目の弟が原因不明の難病になる。
「百日咳から両手両足が壊死して、すべての指の先を切断しました。母は41歳で産んだ末の赤ん坊がいたから、弟の入院の世話をはじめ、あたしが一家の大黒柱で働くしかなかった。だから、小学校には通ってません。
それからは、リヤカーを引いての魚売り。のちに退院した弟も手伝ってくれるんだけど、やっぱり疲れて泣くの。元気づけようと荒川の土手でひと休みしながら、当時はやっていた“♪泣くな妹よ”という歌を歌ってあげて。だから、今もテレビの懐メロ番組で、その歌が流れると泣けちゃうのよね」
ずっと快活な口ぶりだった千恵子さんが突然涙ぐみ、当時の苦労の大きさが伝わるのだった。
戦後も一家の働き頭が千恵子さんであるのは変わらなかった。
次には、北千住駅前の闇市でラーメン屋を始めた。
「この1杯5円のラーメンは売れに売れて、当時の大卒銀行員の初任給と同じくらい稼いで、1年で4000円ためました。でも、お金よりうれしかったのは、無職だった父が手伝ってくれたこと」
これで、ようやく生活も落ち着くかと思ったら、千恵子さんは思いがけない行動に出る。
「あたし、ええかっこしいで、小さなラーメン屋で終わりたくなかった。できるなら、東京のど真ん中で働きたいと思ったの」