戦後の混乱期、13歳で花を売り始めて68年。最後の“銀座の花売り娘”81歳
画像を見る この街が好きなのよ。元気なうちはずっと続ける」と木村さん

 

■父親の放蕩で食べるのにも困るようになり、姉の代わりに13歳の木村さんが花売りに

 

木村義恵さんは、太平洋戦争が勃発する直前の昭和16(1941)年11月16日、4人姉妹の三女として東京は港区の麻布で生まれた。父・小林常義さんは、木村さんの母であるまつさんと結婚した23歳のときに、勤めていた大きな家具店から商才を買われて暖簾分けされ、郵便局や官庁などを相手に店は繁盛。

 

「でも父は、『どうせ戦争に行って死ぬんだから』って、稼いだお金をどんどん自分の遊びに使う、どうしようもない男だったのよね」

 

やがて父は出征し、東京に敵機が来襲するようになった。麻布に住んでいた幼い木村さんにも空襲の記憶はあるのだろうか。

 

「あるわよ。『空襲警報!』って鐘がたたかれると、お櫃とゴザを持った母と私たち4人姉妹は近くの芝公園の防空壕に駆け込むの」

 

東京はいよいよ危なくなり、一家は父の長野県の大地主の実家に疎開。3日後、芝公園の防空壕に爆弾が落ちて避難者全員が死亡したという。その後、木村さんたちは群馬県の母親の実家に移動。獣医の祖父の元には、近隣農家からの米や芋、卵などが豊富にあった。

 

「祖父が、そういうものを扱うお店を母にやらせたのよ。東京からたくさんの人が買いに来たわね。闇屋さんも来て、すごく儲かった」

 

しかしそんな生活は、敗戦4年後に父が帰還したことで終わった。

 

「先に東京に戻った父が、儲けたお金を女や遊びに使っちゃったのよ。それで父は、焼け野原の浅草の観音様(浅草寺)近くのバラックみたいな家でまた家具店を始めたの。私が6歳のころには弟2人も生まれていて、家族8人がそこで雑魚寝。朝鮮戦争特需(’50~’53年)のころは、私も鉄くずや銅線とか拾って売りにいったわね」

 

花売りを始めたのは、昭和29(’54)年、13歳のときである。

 

「父が女をつくって出ていったりして、食べるにも困っちゃって」

 

木村さんは苦笑しながら、当時のことを回想する。

 

「姉が同じ年の友達に、そのことを相談したら、『じゃ、ついて来な』って。17歳と15歳の姉が銀座に花売りに行った。ところがお巡りさんから『あんたたちは大きいから米兵に強姦されちゃうよ。やめな。俺はそういうのを見てきたから』といわれて、いちばん小さかった私が行くことになったのね」

 

荒涼とした焦土の東京で、銀座だけが沸いていた。GHQによる占領は2年前に終わったが、日本にはまだ多くの米兵が残っていた時代だ。

 

「銀座にも米兵がいっぱいいた。数寄屋橋公園のそばには露店が100軒くらいズラーっと並んで、スカーフでもなんでも売っていた。若い女たちが米兵の腕にぶら下がっていてね。花売りも100人くらいいたわよ」

 

そんななかに加わる13歳の娘のことを両親は心配しなかったのだろうか。

 

「ぜんぜん。帰ってきた父が、寝てる私の足を踏んづけて『花売り、行け』なんてこともあったし、家具店への入金は全部自分の遊びに使って、もうメチャクチャ。母も食べていくのに必死よ。住み込みの職人さんたちの世話に忙しくて、夜、花売りからおなかぺこぺこで帰ってきた私のご飯もなかった」

 

ほどなくタクシー運転手から「横浜のほうが花が売れるよ。住んでいる外国人たちは花が好きだから」と聞き、仲間3人で横浜の将校クラブの前で花を売り始める。

 

「将校だから金持ちでしょ。一緒にいる女の人にお花欲しい? って聞いて、その人がうなずくと、OKって、いっぱい買ってくれた」

 

そのときの光景が蘇ったのか、木村さんは柔らかくほほ笑んだ。

 

「1ドルが360円の時代よ。40円くらいで仕入れた花束を1つ100円くらいで売ってた。いまのお金なら千円くらいかな。東京の路面電車の運賃が10円の時代だから。女のコ3人で花を売ってたら家が建つんじゃないかってほど儲かった。将校たちは、ほんと金持ちで優しかったわね。こっちが子供だし、戦争でいじめたからかな」

 

中学2年生のとき、木村さんは浅草の家を出て、お金を入れることもやめた。花売り仲間の家に転がり込み、学校にも行かなくなる。それから女友達と同じアパートの3畳間を借りて移り、一人暮らしを始めた。14歳にして自立したのである。

 

「だって、あんな父のいる家は嫌いだったからね」

 

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