さまざまな障害のある子供たちのモデル事業を行う「華ひらく」社長・内木美樹さん
画像を見る 写真展に勢ぞろいした内木さんファミリー

 

■結婚、起業……穏やかな生活は、授かった長男が2歳になる直前、保育士のひと言で一変

 

「普通にわがまま(笑)、よくいえば活発な女の子でした」

 

’82年12月4日、横浜市に生まれた内木さん。

 

「航空会社勤務の父、専業主婦の母、3つ上の兄の4人家族。地元で小中高と公立校に進み、ずっと陸上部に所属していました」

 

そんな、「ごく普通の生活」が中学1年のときに突然、断たれる。

 

「母が膵臓がんで急死。当たり前だった、学校から帰宅しての『おかえり』という笑顔を失い、深い絶望に陥ります。

 

その孤独や悲しみを12歳の私は抱えきれずにパニック障害を引き起こし、幸福な時期があるからつらいんだと自己防衛で忘れようとするうちに本当に記憶を失い、解離性障害と診断されました」

 

そんなとき、図書館で1冊の学習漫画と出合う。

 

「何げなく手にしたマザー・テレサの伝記を読んで、世界には、こんな不幸な私すら持っている家のない人や、ご飯さえ食べられない人たちがいることを知り、私も泣くばかりでなく、将来、マザーのように自分の体験を生かして何かできないかと、前を向けたんです」

 

その夢を実現すべく、高校卒業後には留学準備の専門学校へ進み、19歳で渡米。ネバダ州のリノ市にある、看護学でも有名な短大TMCCへ入学。

 

23歳で帰国後、コピー機の営業職などを体験。しかし、

 

「上司からのノルマや罵声があったり。留学したせいで、日本の会社とはこういうもんだと思い込んでいましたが、やがて、いわゆるブラック企業だと気づくんです。

 

これは自分の思い描いている道とは違う。だったら、会社に縛られない働き方をしたいと、起業に踏み切りました」

 

’10年11月、たった一人で設立した「華ひらく」は、当初は留学体験を生かして、飲食店のインバウンド向けの接客の英会話教育などを請け負う会社だった。

 

2年後の春に、日米間の長距離恋愛を続けていた克親さんも帰国して、結婚。

 

穏やかな夫との生活のなかで、パニック障害もいつしかおさまっていた。

 

そして、’13年10月8日、長男の尊くんが誕生する。

 

「主人は会社員で経理を担当していて共働きですから、尊は6カ月から保育園。歩き始めるのが遅いくらいで、なんの心配もなく忙しく毎日を送っていました」

 

その日常が、2歳になる直前、保育士のひと言で一変する。

 

「タケちゃん、耳が聞こえてないかもしれません。お名前を呼んでも振り向かないんです」

 

母親の直感で耳は正常だと思っていたが、不安を捨てきれずに、大きな施設を訪ねた。

 

次ページ >ガラスの壁の向こうにいる人にも障害のある子供たちのことをどう伝えるか…

【関連画像】

関連カテゴリー: