■出家後、マスコミの目を逃れて長尾家に来た寂聴さんを見て、涙した母
当時の新恋人で、寂聴さんの人生を大きく変えることになる作家・井上光晴との出会いは’66年、寂聴さんが44歳のとき。高松への講演旅行までさかのぼる。
その後、最初の不倫相手である涼太も絡んでの三角関係となり、さらには、井上の妻も寂聴さんとの関係を知ることに。
その複雑な人間関係から逃れるように精力的に書き続ける傍ら、草創期のワイドショーのご意見番までやるようになっていた。
「とにかく小学生のような好奇心の持ち主で、新しいものは全部知りたい、やってみたいという人。人気アイドルのコンサートも、とにかく行ってみる(笑)。
でも、文壇から、テレビに出ること自体が作家の価値を下げているとの批判もありました。
書くジャンルも広範すぎると、4つも年下だった井上さんから、お説教もされていたそうです」
文壇デビュー後に冠されていた「子宮作家」のレッテルを剝がせず、憤りを長尾さんにぶつけることもあった。
「文芸評論家が、あたしのことを『女の業を書き続けてきた』なんて言うのは腹が立つ。あたしは女の業なんか書きません。人間を書いているのよ、人間を。でも、そう言われるということは、まだ書けてないんだなあ」
そう言って、身を削るようにして執筆し、マスコミに登場し続ける寂聴さんを、長尾さん母子は陰で支え続けた。執筆や取材の経費などが、長尾家の持ち出しのこともあった。
「中学2年の資料調べのころから、報酬はなくて『好きなだけシュークリームを買っていいから』とはたまに言われました(笑)。
取材後など、出版社の方たちと食事になったりする。でも瀬戸内は払わないで、さっさと行っちゃうんです。カードを持たない母は『現金30万円持っていても足りなかったわよ』と言っていました」
親戚でもある作家の創作活動を支えているという自負があったのだろうか。
「それは違います。私たち母子も好奇心旺盛でしたから、瀬戸内と一緒にいることが、ただただ楽しかった。また、瀬戸内もケチというのとは違うんです。そういう面には頭がまわらない性分なんだと、付き合いの長い母も知っていましたから」
やがて’73年の秋が訪れ、“はあちゃん”は、師僧の今東光(法名・春聴)大僧正に導かれて岩手県の中尊寺において天台宗で得度する。
「出離者は寂なるか、梵音を聴く」という仏教の言葉から、法名は寂聴となった。その名には、森羅万象の音に寄り添い、出家者は寂かな心で聴く、との意味があるという。
この出家は長尾さん母子にとって突然のものだった。血縁者として、ずっと思い詰めた様子だった寂聴さんの自殺まで心配していた2人は、出家の報にふれて、大きなショックを受けたそうだ。
「特に母の恭子は、事前に知らされなかったことで落ち込んで、ぎっくり腰で寝込んだほどでした」
恭子さんは、幼いころから身近にいた寂聴さんの出家を聞き、こう洩らしたそうだ。
「あんなオシャレや美容に気をつかう人が、法衣しか着られない生活を選ぶなんて」
出家から1週間後、剃髪姿となった寂聴さんが、長尾家をこっそり訪ねてきた。
「あたしのとこはマスコミがいるかもしれないから、あんたんとこにおらせてもらいたいんだけど。やっぱり、頼れるのは親戚ね」
その言葉を聞いて恭子さんの目には涙が溢れたという。