■出会いから60年超ーーもっとも近くにいた“相棒”が心に刻み続けた奔放作家“心の声”
「これは誰にも話したことがなかったんですが、先日、瀬戸内の出家について考えていて、思い出した会話があったんです」
くも膜下出血での退院後、2人で寂庵を散歩していたときのことだという。寂聴さんが庭の緑を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「私、傲慢だったわね」
「どうして?」
珍しく弱気な言葉を発する寂聴さんに、血縁の気安さもあって率直に尋ねた長尾さんだった。すると、こんな答えが返ってきた。
「去年は咲いていた名も知らない花をすっかり忘れちゃっても、また1年たって同じ花が咲いている。それを当たり前だと思っていた私は、すごく傲慢だった」
そもそも出家後、寂聴さんは、来し方を顧みるような言葉を幾度も発するようになっていた。
「傲慢だったというのは男女関係のこともあったのでは。不倫関係に悩む女優さんなどにも、世間的にまっとうな回答をして、がっかりされることもたびたびでした。
『あたしは、自立しているので不倫相手の家族には迷惑をかけてないと思っていたけど、違うのよ。存在そのものが迷惑なんだと気づいた』と」
傲慢という言葉を思い出して、寂聴さんの心のうちに思いを馳せた長尾さん。
そこで見えてきたのは、やはり寂聴さんの、書くことについての強い決意だった。
病気の前の出家も、作家としての行く末を考えてのことではないかと、長尾さんは言う。
作家として、書くことに馴れてしまった自分を許せなかった。
「『ウケるように、売れるように書くテクニックはいくらでもあるが、それは使いたくない』と言っていました。そんな書き方も傲慢ということだと思うんです。
当時はそこに、ハードワークや更年期もあり、さらに当時、4歳で徳島に置いてきた娘さんが結婚したのですが、何もできなかった。
そうして作家としての新たな地平を開くことが、自分のすべてだと思うようになったのでしょう」
出家や大病を経験し、まさしく生まれ変わった寂聴さんに、さらなる変化が起きていく。
お経を唱えながら、お金や食べ物を受けて回る托鉢を体験したあとには、こんなことを語った。
「『あたしは、あっち側の人間になっていたのでは』と言うんです。徳島の少女時代には、瀬戸内の実家の仏壇店は商店街にありましたから、巡礼の人たちに対して、店先に施しの接待袋を置いていました。でも、大店ほど接待をしないものだったと。
成功した作家として過ごすうちに、駆け出しのころに食うや食わずの生活をしていた自分を忘れ、いつかあっち側、贅沢をしている大店側に安住してしまったのではないかと」
やがて、作家業とともに、社会に対して奉仕する無償の活動が増えていく。
寂庵や、岩手県の天台寺住職に就任したのを機に同寺で始まる、本誌連載でもおなじみだった「青空説法」を始めた。軽妙ながら奥深い語り口で、人生指南の達人としても多くのファンが生まれた。
’91年、湾岸戦争後には医薬品などを持って、バグダッドに飛んだ。
「生業の書くことはきちんと報酬を得る、講演は主催者の提示した報酬をいただく。しかし、僧侶としての活動と、自発的に行う社会活動は無償だと、自分の中で決めているようでした」
青空説法などにも秘書として付き添い、マスコミ対応なども一人でしていた長尾さん。
「日本中を飛び回って、1年間に説法と講演を108回も行った年がありました。
瀬戸内が言うんです。自分のために出家したけど、出家してわかったのは、そうじゃないんだと。世のために働かなきゃいけないんだと。『こんなことなら、出家するんじゃなかった』とこぼしながらも、本当に身を削るように一生懸命にやっていましたね」