■忘れられることを恐れた寂聴さんのことを、これからも書いていく
寂聴さんと強い信頼関係を築きながら、長尾さんが’10年に秘書を辞めたのにはこんな理由があった。
「直接のきっかけは、私が体調を崩したからです。瀬戸内の仕事をして3回、倒れていますが、特に最後は毛細血管が破裂して目と鼻と耳から血が噴き出したほど。このころは19kg痩せました。辞めたあとは私もシングルマザーになったりして、なかなか直接は会えませんでした」
今も思い出すのは、長尾さんだけに見せていた、人間らしい姿だ。
「瀬戸内は、いつも自分が世の中から忘れられることをいちばん恐れていました。『5年もしたら作家は忘れられる』が口癖だったほど。
作家としてもですが、やはり一人の人間として、みんなに忘れられたくなかったのでは」
晩年には、こんな言葉も漏らしていたという。
「あたしの作品で残るのは、西行について書いた『白道』などの評伝と『源氏物語』、あとは『夏の終り』くらいだろうね」
長尾さんは秘書を辞めたあと、昨年まで日本文藝家協会で著作権管理部長を務めた。
「著作権の仕事で瀬戸内に連絡すると、以前の調子で『来ない?』って言われるんですが、私も忙しくて。やがてコロナ禍となり、久しぶりに電話で話したときには、
『だあれも来ないの』
なんて言いますから、やっぱり寂しいんだと思いましたね」
昨年11月9日に訃報を聞き、その4日後に、身内だけの家族葬が執り行われ、長尾さん母子も最後のお別れができたという。
「娘さんやお孫さん、母と私など30人弱の集まりでした。その直後からですね、母がはあちゃんのことを語りだしたのは。
今、母がよく言っているのは、深夜早朝の長電話の相手がいなくなって寂しいということです」
長尾さん自身、寂聴さんに教わったことを大切にしながら、書くことは続けていきたいと語る。
「『夏の終り』『源氏物語』はもちろん、『いずこより』など私も大好きな瀬戸内の小説のこと、まだまだ語っていない2人のエピソードも、みなさんに知ってほしい。それが、はあちゃんを忘れないことにつながればうれしいですね」