「街の人情伝えます」現役91歳 かあちゃん記者、疾走る
画像を見る 結婚式翌日に夫は「集金に行ってきてくれ」と懇願。「でも歩き回ったおかげで中野区内の道路は裏道まですべて覚えました」

 

■4人姉妹を育てながら、夫の後を継いで50歳でかあちゃん記者となる決意を

 

結婚から15年。3人の娘もでき、母親業と新聞制作の助手をしながら、あわただしい日々を送っていたとき、思いがけない出来事が起きる。

 

「主人が、勤めていた新聞社の社長との意見の相違があって、独立することになるんです」

 

こうして、夫婦2人で『週刊とうきょう』を創刊。’74年1月だった。この前年には、中野駅前のシンボルともいうべき中野サンプラザも開業していた。

 

「“週刊”でもないし、“東京”でもないわけですから、看板に偽りばかりですよね(笑)。

 

でもね、主人も最初は中野区以外の取材もするつもりだったし、当初は月3回発行したことも。それでも月2回になったのは、主人の体調のせいも。もともと糖尿もあったりで丈夫じゃなかったから、私から、『お父さん、無理しないで月2回でゆきましょう』と」

 

創刊に当たっては、夫とこんな約束をした。

 

しかし8年後、’82年4月、主筆だった夫の啓権さんは、夢半ばにして亡くなってしまう。

 

「糖尿病など持病もありましたが、最後は肝臓がんで。当時の日本では一般的でしたが、告知をしなかったので、本人は復帰するつもりで、ベッドの上でも亡くなる直前まで記事を書き続けていました」

 

新聞発行に関しては、誰もがもう存続は困難だろうと思っていた。涌井さん自身も、

 

「長い間、手伝いこそしていましたが、新聞作りは、いわばド素人。ですから、主人の記者仲間や印刷所などの関係者、それに購読者の方たちも、廃刊になるのだろうと考えているようでした。

 

私も、仕方ない、と諦めていたというのが正直な気持ちです」

 

ところが、四十九日の法要の席だった。夫の遺影を眺めていて、涌井さんは、ふと思う。

 

「夢だった新聞を創刊して、たった8年ですからね。最期までベッドでペンを握っていた姿を思い出して、さぞ無念だったろうと。やっぱり、私が後を継いでやらないと、主人も、この新聞もかわいそうと思ったんです」

 

周囲にその気持ちを告げると、意外なことに、ほとんどの人が、

 

「記事は下手でもいいから、かあちゃん新聞でいいから、続けてよ」

 

ああ、夫は、この新聞は、中野の人たちに本当に愛されていたんだ、と改めて思い知らされるのだった。そして、その決意は、夫の死後に発行された新聞の一隅に「社告」として表明された。

 

〈『週刊とうきょう』の営業は引き続き涌井友子が主人の遺志を継ぎ継続させて頂きたく存じますので、今後ともよろしくご指導ご鞭撻頂きたく伏してお願い申し上げます 涌井友子〉

 

こうして、夫の残したニコンFを首からぶら下げて、4人姉妹を育てながら、かあちゃん記者となった。ちょうど50歳だった。

 

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