■漫才師、ショーパブ経営、スーパーの精肉部門とケ・セラ・セラな半生ののち、ダブルで重病に
でこ八は、1950年(昭和25年)11月26日、京都市の生まれ。
「自分でも変わった子やったと思います。屋根から傘持って飛んだら、傘がパラシュートになるやろうかと、本当に飛び降りたり。よう、大ケガせんやったもんや。
保育園に入っても、すぐに脱走する。行く先は映画館。美空ひばりちゃんが憧れでした。
父は、行商人。半纏など衣類を売ってましたが、口の達者なわたしをよくお供にしてたね」
家計を助けて、小3から、うどん屋で出前持ちも。
「6杯積んだおかもちを運んでたから、チビでも鍛えてるんで、貧しいのをからかわれてケンカしても、必ず勝ってました」
それでも高校まで進学したが、入学早々に退学してしまう。
「1年の1学期でやめたのは、芸事をしたかったから。もともと教室の授業も、じっと聞いてられへんタイプやったし」
まず落語家の門を叩いたが入門は許されず、次に夫婦漫才で大人気だった今喜多代師匠のもとへ。
「師匠にかわいがられて、そのうち『養女に』という話もあったんやけど、お断りして居づらくもなったりで、師匠宅を出るんです」
15歳で、養成所の明蝶芸術学院時代に出会った相方と、女性漫才コンビ“ヨウコ・マキコ”を結成。
「ヨウコがわたしで、ボケ担当。千日劇場に出演したり、大阪城や中之島の路上でも漫才したな。そのうちファンもついて、ジュースを差し入れてもらったり」
その後、相方が代わっても漫才を続けていたが、23歳で出産。
「未婚で娘を産みました。それが玄武の母です。なんで未婚か? まっ、人生いろいろやから(笑)。でも、わたしは、今で言うシングルマザーで芸人や水商売しながら子育てしましたが、うしろめたさも、しんどいと思ったことも一度もないんです。
ケ・セラ・セラ、なるようになる。ギスギスしても1日、ニコニコしても1日、同じ1日過ごすなら笑ってようと思って、今日まで来ました」
京都の祇園で水商売の世界に入ったのが、30歳のとき。
「自分が企画したショーを見せるラウンジをやりたかった。ショーパブの走りやね。ただ、場所が格式のある祇園やったから、いわば異端児で、5年間は赤字続き。
そのうち常連さんもついて、店は連夜にぎわうように。いちばんの店のウリ? そりゃ、わたしのトークやろうね(笑)」
20年続いたラウンジを閉めたのは、いわば時代の流れだった。
「そのころから、女子大生、短大生ホステスが急増するんやけど、まともにトークもできひんコばかりで、高い時給を払うのがバカバカしくなって。
で、店は畳んだけど、この性分やから、じっとしてられへん。そんなとき、近所のスーパーの精肉部門で募集があって、面接を受けました。最初は、『祇園のラウンジのオーナーにスーパーなんて務まらん』と言われるんやけど」
ここでも、持ち前の粘り強さと祇園で培った経営センスで、すぐにマネージャーに昇格。ニューヨークへ研修で派遣されるまでになる。また、孫の玄武も、この間の’02年に誕生している。
しかし、人生、好事魔多し。
「最初は、足の裏の痛みからで、これがマッサージしても何しても消えん。で、精密検査受けて、お医者さんに『うち、アウトかセーフか?』と聞いたら、なんと『アウトです』と。見つかりにくい肺がんで、ステージ1やった」
手術をして、2カ月の入院後、治療も一段落して、ホッと安堵していた。
「よそへの転移もないと聞いて、ようやく退院できると思っていたら、今度は、汗と唾液が出なくなってるのに気づいて。調べたら、なんや聞いたこともない難病やったんです、それもダブルで」
このときばかりは、でこ八の座右の銘「ケ・セラ・セラ」も、さすがに封印されるしかなかった。