■生きたくても生きられない子が、世の中にはたくさんいる。粘り強く、しぶとく生きていこうと誓った
事件は21歳のときに起きた。父の会社の倒産と、夜逃げーー。
「その日、家庭教師バイトを終え、帰宅したのが21時ごろでした」
呼び鈴に応答すると、知らない男性2人がいきなり入ってきた。
その後も立て続けに何人も上がり込み、20人ほどに取り囲まれた。
「そこで『父の会社が倒産した』と聞かされました。彼らは債権者だったんです。『父親の居場所を教えろ』『金を出せ、あるんだろ!?』怒鳴られ、脅され……本当にドラマのワンシーンのようでした」
商売道具のバイオリンだけ死守してほうほうの体で家を飛び出し、知人や友人宅を転々とした。
2カ月後なんとか4畳半アパートに落ち着いたが、家からは家財道具一式、持ち去られていて……。
「残ったのは炊飯器だけ。お米を炊いてもおかずを買う余裕がなかった。体重が40kg台に落ち、ガリガリに痩せ細ってしまいました」
視覚障害者の手当はあったが、それだけでは生活できない。市川市役所で追加支援の有無を聞くと、信じがたい差別発言を放たれた。
「50代の男性職員が、笑いながら『あなたみたいな人にできる援助はないということですわ』と言いました。強烈な悔しさで涙が出て」
その怒りが、一切の甘えと退路を断った。以来「どんなに小さい仕事でもくまなく探して取りに行く」営業スタイルで動きだした。
ライブハウスから結婚式場まで、片っ端から電話をかける日々。
「些少なギャラでも『ありがとうございます』と引き受けました。
高齢者施設のボランティア演奏も喜んで行った。ノーギャラでも、交通費が出て院内給食をいただければ御の字です。だって、おかずがあるんですから!」
経験を重ねれば、経歴に書ける項目も増えていく。職業訓練校に通って習得したパソコン処理で、履歴書も企画書もお手のものに。
「売り込みながら同時にコンテストを受けました。なるべく賞が取りやすいものから応募したんです」
たとえばビール会社のCMオーディションに採用された曲がFMラジオでOAされると即、実績に上書きして、また営業へーー。
「ふつうはクラシック奏者が書かないものも、構わず書いてアップデートしました。病院や施設での演奏歴もすべてです」
そしてついに、CDデビューのチャンスが。’99年、24歳でアルバム『シンシアリー・ユアーズ』を発表したのだ。
「プロとして『やっていける』と思えた瞬間です。収入はわずかでしたが、これを営業ツールにして『食べていける』自信になった」
’01年、26歳で左目を摘出手術して、両目が義眼となったが。
「かえって、スッキリしました。『もう目のことで闘わなくてもいいんだ』と。手術前、記念に自分の顔に向けてカメラのシャッターを切り、光の見納めをしました」
’06年、第25回浅草ジャズコンテストで金賞。そして’10年、障害のあるミュージシャンの国際音楽コンクール「第7回ゴールドコンサート」でグランプリを受賞。
再三の苦境もそのつど、笑顔で前を向き、乗り越えてきた原動力とは、なんだったのかーー。
「最初の心臓手術をした、10歳のとき、病室の隣のベッドに5歳の男の子がいました。その子は生まれてからずっと入院生活で病院を出られない子だった。
いつも消火器のおもちゃを握っていたあの姿に『遊びたくても遊べない、生きたくても生きられない子が、世の中にはたくさんいるんだ』と思い知らされました。
私自身は『どんなにつらいことがあろうと命を無駄にしない。粘り強く、しぶとく生きていこう!』と、あのとき誓ったんです」
だからこそ「食べていけること」の幸せをかみしめていたのだ。
夜逃げしていた父は、穴澤さんが29歳のころ消息がわかった。
穴澤さんはその後「付かず離れず」の距離にいて、父は71歳で亡くなった。