母は家出、父は夜逃げ 全盲のバイオリニスト・穴澤雄介さんの壮絶半生
画像を見る ステージに立つ際には木製のスティックを貼り立ち位置にする穴澤さん(撮影:高野広美)

 

■夜逃げした父は29歳のとき消息が判明。5年前、危篤状態で意識のない父に手向けの曲を奏でて

 

事件は21歳のときに起きた。父の会社の倒産と、夜逃げーー。

 

いきなり自宅にやってきた債権者に取り囲まれ、商売道具のバイオリンだけ死守してほうほうの体で家を飛び出し、知人や友人宅を転々とした。

 

2カ月後なんとか4畳半アパートに落ち着いたが、家からは家財道具一式、持ち去られていて……。

 

「残ったのは炊飯器だけ。お米を炊いてもおかずを買う余裕がなかった。体重が40kg台に落ち、ガリガリに痩せ細ってしまいました」

 

視覚障害者の手当はあったが、それだけでは生活できない。市川市役所で追加支援の有無を聞くと、信じがたい差別発言を放たれた。

 

「50代の男性職員が、笑いながら『あなたみたいな人にできる援助はないということですわ』と言いました。強烈な悔しさで涙が出て」

 

その怒りが、一切の甘えと退路を断った。以来「どんなに小さい仕事でもくまなく探して取りに行く」営業スタイルで動きだした。

 

そしてついに、CDデビューのチャンスが。’99年、24歳でアルバム『シンシアリー・ユアーズ』を発表したのだ。

 

「プロとして『やっていける』と思えた瞬間です。収入はわずかでしたが、これを営業ツールにして『食べていける』自信になった」

 

’06年、第25回浅草ジャズコンテストで金賞。そして’10年、障害のあるミュージシャンの国際音楽コンクール「第7回ゴールドコンサート」でグランプリを受賞。

 

夜逃げしていた父は、穴澤さんが29歳のころ消息がわかった。

 

「保健所から電話で父の名前を言われ『息子さんですね』と。結核にかかって身元引受人が必要となり、私に連絡が来たんです。『ああ、父は生きていたんだ』と」

 

父からも直接、電話を受けた。

 

「特に夜逃げしたことを謝るでもなく『大変なことになって参ったよ〜』と。基本やさしくおおらかな人。怒る気もありませんでした」

 

その寛容さは、父への特別な思いがあったからだと打ち明ける。

 

「私に生を受けさせてくれたのは、父だという感謝があるからです」

 

父の結核は快方に向かい、穴澤さんはその後「付かず離れず」の距離にいた。

 

その父が71歳で亡くなったのは、’18年8月。穴澤さんは、その日、埼玉県でライブ中だった。

 

「当時、父は軽い脳梗塞を発症してリハビリ後、神奈川のグループホームに入所していました。そこで脳幹出血で倒れて『危篤状態です』という連絡を受けました」

 

穴澤さんはライブをアンコールまでしっかり演奏し終え、神奈川まで電車を乗り継いだ。

 

「夜12時近くでしたが、もう意識のない父に向け、消音器をつけてバイオリンで演奏しました。父が好きなビバルディの『四季』から『冬・第二楽章』を」

 

父と息子だけの小さな演奏会を終えると、病室は無音になった。

 

「中途失明で、心臓疾患があって、生活困窮者だった私が、なんとか演奏家として生活できています。

 

どこかにコンプレックスがあっても、人それぞれ与えられた環境で、ベストを尽くすことが大事。それを、ひとりでも多くの方に伝えていきたいと思っています」

 

穴澤さんの音が、先々で出会う人たちに、光をもたらしていく。

 

(取材・文:鈴木利宗)

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