ひで子さんと暮らす家でリラックスして眠る巖さん(写真:落合由利子) 画像を見る

【中編】袴田巖さん姉・ひで子さん明かす苦難「『巖はもうダメかいね』そう繰り返しながら母は死んだ」より続く

 

10月27日、袴田事件の再審初公判が静岡地方裁判所で始まる。死刑判決を受けた袴田巖さん(87)の48年に及ぶ獄中生活を支え、現在は生活をともにしているのが、姉のひで子さん(90)だ。

 

巖さんに代わって、補佐人として再審に参加する予定のひで子さんが、巖さん釈放までの道のりを語った。

 

■面会に行っても「姉なんていない」。おかしくなっていく弟の言動

 

1966年、静岡県清水市の味噌製造会社の専務一家4人を殺害したとして、放火・強盗殺人などの罪に問われた巖さん。

 

当初、検察側は、犯行時の着衣を巖さんの部屋にあったパジャマだとしていたが、一審の途中、味噌タンクの中から突如発見されたという血まみれの“5点の衣類”であると主張を覆した。

 

それにも関わらず、1968年9月11日に静岡地裁が下した判決は“死刑”。1969年5月に始まった東京高裁の控訴審では“5点の衣類”が巖さんの所有物であるか否かが争点になった。

 

巖さん自身がズボンをはく実験が3回行われたが、いずれも太ももまでしか入らなかった。
「これで無罪になる」

 

巖さんもひで子さんらも、そう確信したが、死刑判決は覆らず、事件から14年後の1980年11月、最高裁は巖さんの上告を棄却。死刑が確定してしまう。

 

ひで子さんは当時の心境をこう振り返る。

 

「あのときは、弁護士から記者から支援者まで、全員が敵に見えたもん。誰もわかっちゃくれんのだと思ってね」

 

巖さんの精神も、死刑確定を境に崩壊していった。

 

「ある日、面会に行ったら『昨日処刑があった。隣の人だった。お元気でって言ってた』とまくしたてて。それから巖の言動はどんどんおかしくなったの。『電波を出すヤツがいる』『天狗や猿がいる』。私が面会に行っても、『姉なんかいない。メキシコのババアだ』なんて言って会おうとしない。そんな日々が3年半ほど続きました」

 

しかし、巖さんに会えなくとも、ひで子さんは毎月、東京拘置所に足を運んだ。

 

「手紙を出しても読まないし、面会に行くしか巖に連絡を取る術がない。完全に我を失ったわけじゃないから行けばわかってくれると思ってね。“見捨てていないよ”というメッセージを送るために会えなくても通ったんです」

 

“巖は無実”という揺るぎない信頼がひで子さんの原動力だった。この間、プロボクシング協会でも支援の会が立ち上がり、巖さんの救済を求める輪はどんどん広がっていく。

 

一方で、裁判のやり直しを求める第一次再審請求の審理は遅々として進まず、地裁・高裁で退けられ、2008年に最高裁で棄却が確定。この時点で、巖さんの収監は40年に及んでいた。

 

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