■ニューイングランドのお菓子作りを学んで。帰国後は“コスプレ”の料理教室が話題に
アメリカでの一人暮らしは想像以上にキツかった。
「ただ目の前にある大学卒業に全力を尽くすのみと悟りました。この経験は、紛れもなく私の人生の一大転機。苦しかったけれど、幸せとの縁結びはここから始まったと思っています」
そのころ、親しくなったのが文学部のアナ・チャーターズ教授だ。
「18~20歳の学生のなかで47歳の私が頑張っているのを見て、声をかけてくれはった。“うちへ遊びにいらっしゃい”と誘ってくださって、ポピーシードのケーキをちゃちゃっと作ってくれました。“おうちで作るケーキ、とても美味しいですね!”“簡単なのよ”このやりとりからすべてが始まりました」
寮を出て、教授の家の地下にあるキッチン付きの部屋に賃料を払って7カ月、お世話になった。そのころ教授は、こんな提案をする。
「ニューイングランドのお菓子を習って、日本で作ったら? アメリカ菓子だと美味しくなさそうだからニューイングランドがいいわ」
それから平野さんは3人のお菓子の先生から教えを受けた。
特に3番目に出会ったシャロル・ジーン先生には9カ月の集中講義を受け、アメリカンベーキングの基礎を徹底的に学んだ。
「シャロル先生の教えは“テクニックは見て、まねて、学びなさい”。私は、先生の手先、指先の力の入れ具合まで、想像力を駆使して盗み取ろうと必死でした。努力、努力の毎日が今まで感じたことがないほど私を充足させてくれました」
シャロル先生からケーキディプロマ(修了証書)を授与され、2年3カ月の留学を終え、帰国。シャロル先生はいまでは平野さんの親友だ。
帰国後は京都の実家のキッチンで、お菓子教室を開いた。
「特徴を出そうと、アメリカ開拓時代のコスチュームを着たんです」
それが京都新聞で紹介されると、2人しかいなかった生徒数が瞬く間に150人に増えた。
2000年、貯めておいた月謝と少しの借金で、教室と店舗を併設した「松之助」を京都にオープンする。「松之助」は、能装束織物の匠だった祖父の名前だ。
「そこそこ裕福な家庭に生まれて、私の仕事もお遊び程度に思う方がいたかもしれませんが、実家の援助はなく、必死でしたよ」
京都店が軌道に乗ると、次は東京進出だ。自ら教室のビラ配りをし、2004年、代官山店をオープン。
しばらく赤字続きだったが、テレビで取り上げられると一躍行列ができる店になった。
「50代はとにかく必死でした。がむしゃらに前に進むだけでした」