■「中学校の子供たちは本当に純粋で素直でかわいらしかった」
近藤奈津枝さんは、’66年1月13日、山口県岩国市に生まれた。会社員の父と、パート勤めの母、そして3姉妹の5人家族。
「両親はほかの家庭と比べて厳しかったと思います。特に田舎特有の第1子に対する厳格な教育を受けたという記憶があります。
そのせいか、小さいころから弱きを守るといった正義感、自分を追い込むといったストイックさ、仁義、人に対する敬意や礼を尊ぶといった気持ちが強かったです。体育会系というか、侍みたいな子だったと思います」
“侍少女・奈津枝”は、とにかく一本気だった。
「高校、大学とハンドボール部のキャプテンを務めましたが、いま思うと、絶対に後輩にはなりたくない先輩でした。キャプテンを務めていたときに『あんな厳しい人にはついていけない。頭がどうかしている』と、高校、大学時に2度も後輩たちに部活をボイコットされてしまったのです」
進学した山口大学のハンドボール部は無名だったが、近藤さん入部後、中四国学生ハンドボール選手権では最強のチームと呼ばれるまでに成長した。
「まずまずの結果を出しました。だから将来は教師になってハンドボール部の顧問になり、全国制覇したかったのです」
そのために大学卒業後は中学校の国語の臨時教員となった。
「小さな島にある、小中学校が同じ校舎の小規模な学校だったので、専門の国語以外に数学や家庭科も教えていました。子供たちは本当に純粋で素直でかわいらしかったです」
しかし教員採用試験に合格することはできなかった。
「一般的にも2度、3度と挑戦することが普通だったので挫折感はありませんでしたが、“自分には向いていないのかな”という思いが湧いてきたのです」
ちょうどそんなとき、市役所で自衛官募集のパンフレットを目にし、応募したことから人生が大きく変わる。
「正直、自衛隊に対する知識もありませんでしたし“国防を強く意識して入隊した”ということではないのです。ただ、こんな私でも採用してくれたという喜びがありました」
だが30年以上前の自衛隊は、国民からの認知度、関心が低いばかりか、蔑まれているような空気感に包まれていたという。
「災害派遣で警察、消防、自衛隊の3つの組織が活動していても、メディアが取り上げるのは消防隊員、警察官の姿。自衛官がニュースになるのは、不祥事を起こしたときぐらいだったのです」
さらに有事の際には前線に立たなければいけないため、娘の命の危険を案じたこともあったのだろう、母は入隊に大反対した。
「『私はあなたを自衛官にするために大学に行かせたわけじゃない!』と激怒されました。娘が苦労するだろうと心配する、親心もあったのでしょうね……」