84歳の現役訪問介護ヘルパー「最愛の夫も看取り…仕事をまだまだ続けたい」
画像を見る 利用者のひとり植田静夫さん(80)は「ひとり暮らしだとしゃべらないから、長田さんが来るのは楽しみ」と笑う(写真:永谷正樹)

 

■直面した利用者の死…奮闘するうちに気づけば地域の“顔”に

 

「いちばん最初に勤めに出たのは、まだ娘が幼稚園のころで、近所のガソリンスタンドです。最初の給料は2万8000円でした」

 

元来、人当たりのいいテツ子さんは、客商売は向いていて、給料も倍額まで増えていった。

 

「でも、職場近くの橋が撤去されることになって、お客さんが激減し、仕事が続けられそうもなくなったんです。そんなとき、近所の人から『厚生会の仕事があるんだ』と聞いたんです」

 

身体障害者施設や高齢者施設でケアをする厚生会の仕事は、未知の世界。役所勤めで福祉関連の部署にいた経験もある叶彦さんも「お前には勤まらないかもしれない」と案じた。

 

仕事はフルタイムで、振替休日があるものの日曜出勤もあったし、夜勤もあった。入浴や食事、排せつの介助は体力も必要だった。何より叶彦さんが心配したのは、ここでは利用者の死に直面することもあったことだろう。

 

「若かったころ、浣腸のあとで容体が急変した利用者さんがいて……。汗びっしょりになって、苦しむ姿を見て、亡くなったときは涙が出ました。上司からは『仕事で涙を出すのは、プロじゃない』と言われてしまったり……。当時は自分の気持ちを否定できず、仕事だと割り切れませんでした。

 

でも、仕事を続けるうちに1日に5人の看取りをすることもあったりすると、次第に慣れてしまい、仲間内で『身内が亡くなったら、どういう気持ちになるんだろう』と話したりしていました」

 

利用者の死と直面するため、亡くなったときに後悔しないよう、懸命に日々のケアに努めた。

 

「仕事中に利用者さんから声をかけられても、忙しいときは、つい『あとでね』と言って、そのまま忘れてしまったりすることも……。主人からよく言われていたのは『後回しにしてしまっても、必ず、利用者さんのところに行って、さっきはごめんねと言って、ちゃんと話を聞いてあげなさい』ということでした」

 

そうした夫のアドバイスや応援を支えに、テツ子さんはまっしぐらに福祉・介護の仕事に取り組み、58歳にして介護福祉士の国家資格に挑戦。

 

「教科が14くらいあって、とにかく勉強するのが大変。10人くらいの仲間がいて、みんなでお昼休みにプレイルームで勉強したり、自宅では夜の2時過ぎまで、覚えることを口に出して勉強したりしていました」

 

合否の結果をドキドキしながら待っていたが、見事に合格。

 

「自分にとっても大きな自信になりました。この資格があるからこそ、今の訪問介護の仕事に就くことができたんです」

 

60歳を迎えるまで厚生会で働き、さらにそれから10年、再雇用として夜専(夜勤専門)のスタッフとして活躍。月7回、夕方5時から翌朝9時までで、仮眠時間は4時間という不規則な勤務形態だった。

 

ちょうどそのころから、日中は社会福祉協議会が運営する「元気はつらつ教室」で、高齢者を対象に介護予防の取り組みを始めた。

 

「高齢者の生活指導をしたり、健康体操などをやっています。遠足に行ったり、生花を生けたり、クリスマスツリーを作ったりもしました。はつらつ教室は今でも続けています」

 

長年、地元・天竜区の地域介護を支えてきたことでとにかく顔の広いテツ子さんは、2020年、81歳にして大きな転機を迎える。現在、在籍している訪問介護事業所「てんまるっと」代表の鈴木久美子さんが振り返る。

 

「私は包括支援センターなどで働いていたんですが、厚生会などを通じてテツ子さんとは顔なじみでした。テツ子さんは地域のことを熟知していて、どこに誰が住んでいて、その親戚や同級生は誰かということまで知っている。

 

地域にはこういうつながりが大事だから、2021年1月に訪問介護事業を立ち上げるとき“この地域をまかせるなら、この人しかいない”と、いちばん初めにテツ子さんに声をかけたんです」

 

ところが、テツ子さんは迷った。

 

「訪問介護は経験がないし、年齢も80歳を超えていましたから。でも、鈴木さんが『年齢は関係ありません。テツ子さんならできます』と断言してくれたから、やってみようかと。

 

未経験だからこそ、逆に構えることもなく入っていけたのかもしれませんが、雲をつかむような話。私にとって、一つの冒険でした」

 

テツ子さんほどのキャリアがあっても、訪問介護の仕事には戸惑うこともあった。

 

「最初に担当した双子の姉妹の利用者さんには、拒まれてしまったんですね。ご自宅に行っても、お薬をちゃんと飲んだのか確認すると“もう、いいです”と、ほんの2?3分で返されてしまうんです」

 

ここからがテツ子さんの腕の見せどころだった。

 

「私と同じ年だったこともあったし、地元の共通の知り合いの話をしたり、名前の由来を聞いたり、会話することで距離を近づけていきました。徐々に“この人なら”って受け入れてくれて、部屋のお掃除もさせてくれるほどに」

 

姉妹のうち、妹が高齢者施設に入所することで、自宅に残された姉はひどく悲しんだ。ご飯もいらないと言うし、お散歩にも行きたがらない。

 

寂しくて「死にたい」と言いだしたとき、テツ子さんは「死んだら、私が困るだよ。せっかく仲よくなったじゃない」と寄り添った。

 

「何も特別なことはしていません。ただ、向き合っていくと自然と仲よくなるものなんです」

 

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