■誰も知らない世界に行きたい…と考えていた中学時代
1980(昭和55)年3月8日、東京都府中市生まれの山本さん。
「共働きの両親と弟がいる、いたって普通の子供でした。ただ4歳で両親が離婚し、母の不在時に預けられていた祖母から『お母さんに迷惑をかけないように』と言い聞かされて育ちましたから、まわりはよく観察していても、本当に思ってることは言わない子でした」
地元の小中学校を出たが、学校にはあまりなじめなかった。
「中学では、母親が出社したあとに母のフリして『今日は娘の体調が悪いので休ませます』と、学校にずる休みの電話をかけたり。
シングル家庭ということも、今と違って人に簡単に言える社会ではなかった。そんな自分のことを誰も知らない世界に行きたいと、いつも考えていました」
その願いは、都立府中高校への入学で実現する。
「1年生のとき、ドイツからの留学生と仲よくなりました。大好きだった洋楽の本場にも行ってみたかったし、『ここを出たい』という思いがますます強くなって。
市の無利子の奨学金やコンビニなどバイト3つをかけ持ちして旅費をため、3年生の夏にアメリカへ、続いてイギリスへの留学を実現させました」
帰国後は留学経験を生かした仕事に就きたいと考え、外国語専門学校へ。
卒業後は就職氷河期だったこともあり、学生のころからバイトしていた近所のコンビニに正社員として就職した。
「でも現実は厳しくて、過酷な労働環境に耐えきれず、1年後に輸入雑貨の問屋に転職し、アジア方面の仕入れなどを担当しました」
コンビニ時代からの仲間で、会社員のさん宗武(48)と結婚したのは24歳のとき。翌年には長男が、さらに年子で長女が誕生する。
「2人とも保育園です。特に長男のときは会社で初めての産休を取り、3カ月後には職場復帰しました。長女も同様でした。
結婚・出産しても、仕事を辞める選択肢は私にはありませんでした。女性は家庭にいるべきという時代に総合職として勤め上げ、『女でもひとりで稼いで生きていく』との姿勢を貫いた母親の影響は大きかったと思います」
仕事に子育てに充実し多忙な日々を送るなか、第3子を妊娠。
「子供が3人になっても、今度もギリギリまで育休を取って、また仕事に復帰するつもりでした」
ところが妊娠7カ月のエコー検査で、近所の産院の医師が告げた。
「頭の大きさだけ、成長が止まっているね」
不安を抱えたまま翌月、世田谷区の国立成育医療研究センターへ。
「ここで、先天性サイトメガロウイルス感染症の罹患の疑いを告げられました。
『それなりの障害です』との告知と同時に、『お母さん、覚悟はできていますか』と言われましたが、出産まであと1カ月ほどで戸惑うばかりでした」
2008年5月29日、次男の瑞樹君が2,270グラムで誕生。
すぐにNICU(新生児集中治療室)へ入り、翌日には酸素を送るチューブが鼻につなげられた。