■ハイカラ娘が、田んぼの面白さに没頭。子育てしながら20年以上一人で米づくり
池内農園の母・佐知代さんは、1950年、ここ綺田町で代々続く農家の4人姉妹の3女として生まれた。
「高校1年生で父が亡くなったあとは、母が農業を続けていました。私は姉妹のなかでも“ごくたれ(怠け者)”で、少女のころから田畑の手伝いもしてこなかった。高校卒業後は京都で商業デザインの仕事をしていましたが、ある日突然、母から『長女を嫁に出すから戻って田んぼを手伝って』と言われるんです」(佐知代さん、以下同)
そうして22歳で農業を継いだとき、池内家の田んぼの広さは1町8反(約5千400坪)だった。
「当時は農薬も使う、一般的な農法でした。母は私に手取り足取り教えてくれるわけではなく、日々の作業を日記につけることにしました。その日記を後で読み返して、毎年試行錯誤の連続でした」
周囲から見れば、元デザイナーのハイカラ娘。「あんな小娘に農業ができるわけない」と言われたこともあったが、農園を継いでから20年以上、たった一人で頑張ってきたことで、近所の人も次第に、応援してくれるようになっていったという。
そして28歳で、繊維会社の会社員と結婚。その翌年から、長男の満さん、長女の桃子さん、次女の陽子さんを出産し、3人の子の母親となる。
「田んぼが面白くて。ますます張り切って、どんどん広げていきました。その分、子育ては正直、母任せでしたね。ところが、1992年の1月。突然、夫に末期の肝臓肉腫が見かって入院し、そのまま夏に亡くなりました。43歳の若さでした」
悲しみに暮れるなか、同じころ、知人から「農薬も肥料も使わない自然農法をやりたいが、1枚でも貸してもらえる田んぼはないか」との声がかかった。
「最初はわずか1反7畝をお貸しすることにしました。その方が自然農法を実践する姿を見ているうちに興味がわき、自分もやってみようと、翌年から一部の田んぼを自然農法に切り替えました」
当時、自然農法はまだまだマイナーで全国的にも珍しかった。しかし佐知代さんは、米の流通が自由化したタイミングも相まって、周囲の目も気にせずに、がむしゃらに農作業に没頭していった。
「始めてみると、一生懸命だったので大変と思っている暇もありませんでした。私自身、農薬を使うと顔がパンパンに腫れたりするので、もともと農薬も控えめに使っていて。予想よりすんなり切り替えられて、そこからほかの田んぼもすべて自然農法に切り替えました。それまでの農法から変えるのはもちろん大変でしたが、たくさんの方に支えていただいて、これまでやってくることができました」
佐知代さんの苦労を幼少期から見ていた長女の桃子さんにも、こんな思いが。
「物心ついたときには、母はいつも田んぼにいました。毎日、朝から晩まで汗にまみれて働く大変そうな母の姿を見て『私は生産者には絶対になれない』とずっと思っていました」(桃子さん、以下同)
