■不良生徒とも分け隔てなく交流した
観光客でにぎわう古都・奈良市から近鉄電車に揺られること1時間弱で橿原神宮前駅につく。紅葉も終わり、初代天皇・神武天皇を祀る橿原神宮を訪れる人もまばらで駅周辺は静かで落ち着いていた。
1961年3月7日、高市早苗は設備機械メーカーの営業職だった大休さんと、奈良県警に勤務していた和子さんの長女として奈良市で生まれた。彼女が6歳のときに弟が生まれ、小3のときに橿原市の南に位置するこの地に転居してきた。早苗少女が通った橿原市立畝傍南小学校の同級生が語る。
「早苗が住んでいたのは“日生住宅”と呼ばれる丘陵地を造成した地区の一軒家でした。早苗が転校してきたときには2クラスでしたが、周囲のベッドタウン化が進み、卒業するときには4クラスに。早苗はお世話好きで、転校生が来るたびに校内を案内して、私も転校生を紹介してもらったことがあります。でも、飛び抜けて成績がいいわけでもなく、いつもニコニコしていたけど控えめな女の子でした」
合唱クラブに所属しメゾソプラノを担当していた早苗少女は、橿原市立畝傍中学校に進むと、活発な姿を見せるようになった。中学の同級生が語る。
「当時の畝傍中学校は、校内暴力が多く、窓ガラスはいつも割れているほど荒れていた。早苗が入学する前の年には、生徒が放火して校舎が全焼した事件も。同級生には不良がいて、女のコたちは“ようしゃべらんわ”と避けていましたが、早苗だけは誰とでも分け隔てなく付き合っていて、怖い人たちとも普通に話していました。その後、不良だったコたちが早苗の選挙を手伝っていて、彼女も“あんなに悪かったのが、エエ職人になってはるわ”と喜んでいました」
また別の同級生はこう語る。
「中3のときに高市さんが生徒会長に立候補したことを覚えています。保守的といわれる奈良でも、橿原はその色が濃くて、当時は、生徒会長は男子と決まっていました。会長選には落ちたけど生徒会活動をがんばっていましたね」
早苗少女の人間形成には両親の影響力が大きい。幼いころには「教育勅語」を繰り返し教えられた。とくに和子さんからは、「人さまに迷惑をかけない」「職業に貴賤はない」「陰で他人の悪口を言わない」と厳しく躾けられた。奈良県警で働いていた母について高市はこう記している。
《育児や祖父の看病で大変な時期でも、重大事件が発生した時には夜遅くまで働き、深夜に家事を完璧に片付け、早朝から家族の弁当を作ってくれた。職場には一番乗りで出勤し、同僚に気づかれることもなく全員の机を拭いて花を活ける。それが「女性職業人」としての母の拘りでありプライドだった。弟が生まれる臨月に容疑者を追いかけて大きなお腹で全力疾走していたことを母の同僚から聞き、父が呆然としていた姿を覚えている》(『文藝春秋』2018年12月号)
