■娘を叱り続けた母は「早苗は首相になる」と
和子さんは、娘の結婚に気をもんでいた。というのも和子さんは「嫁に行くまでは、娘の管理は親の責任」と口にしていたからだ。そんな高市は結婚観についてこう語っている。
《結婚はしたい、したい、したい。私、ワシントンでも結婚しかけてダメになったんだけど、その人、恋人のときは「このコ議会で働いてんだ」とかいって私のキャリアを認めて連れ歩いてたくせに、いざ結婚となったら仕事は全部やめてくれって言い出して、「家具だって磨けば1日かかるよ」だって。思わず「じゃ自分で磨けば」(笑)。見合いもしたけど、私が稼ぐからお手伝いさん雇わせてというとほとんどノー》(『CLASSY.』1992年4月号)
そんな高市が結婚したのは44歳のとき。2003年の衆議院選挙で落選の憂き目をみた時期だった。高市へのインタビューをもとに『高市早苗 愛国とロック』(飛鳥新社)を出版した作家の大下英治さんが語る。
「落選した翌朝に和子さんから『これは自分の幸せを考えるチャンスよ』と結婚を促され、高市さんはさまざまな会合で『いい方がいたらご紹介ください』とお願いしていました。そこに立候補したのは離婚経験があり、3人の子持ちの当時自民党の山本拓議員(73)。山本議員は『調理師免許を持っているので、一生おいしいものを食べさせます』とプロポーズしたのです」
和子さんは、娘の結婚を前向きに考えていたようだ。和子さんの友人がこう語る。
「大阪のホテルで行われた早苗ちゃんの結婚式に行ったとき、和子さんは『早苗はまったく料理ができないから、(調理師免許を持っている)山本さんなら丸ごと面倒みてくれそう』と喜んでいました。ようやく肩の荷が下りたのではないでしょうか」
2005年の衆院選で返り咲き、再び国会議員になった高市は、内閣府特命大臣、政調会長、総務大臣とキャリアを積んでいった。しかし和子さんは簡単には娘を認めなかった。高市は母の厳しさをこう語っている。
《私は週末には郷里・奈良の選挙区で活動していますが、何時に帰っても、母は起きて待っていてくれます。でもそれは、お疲れ様と労うよりは、結構厳しい“愛のムチ”といった方がいいでしょう。(中略)玄関で「ただいま」という私の声が小さいと、まず一喝されます。疲れたとか、辛いような顔をしても駄目。家族であっても集団生活なのだから、回りを不愉快にさせてはいけないというのが母の考え》(『よみがえる』2000年10月号)
前出の大下さんがこう語る。
「年老いた和子さんに会うために、高市さんは議員活動の合間を縫い、深夜の新幹線で奈良に帰り、翌朝の始発で上京することもたびたび。でも顔を合わせるたびに母親に叱られていた。和子さんは何歳になっても口は達者。高市さんが言い返そうものなら平手打ちをする。国会議員になっても親にビンタをされる、大臣になっても叱責されるなんて聞いたことがありません」
そんな和子さんだが、娘の前とは異なる姿も見せていた。奈良市内のかつて自宅の近隣住人が語る。
「高市さんがまだ国会議員になる前のことでした。和子さんが『四柱推命の先生に占ってもらったら、早苗は日本を牽引する首相になる、と言われたのよ』とうれしそうに話していました。当時は、政治家になってもいないのに総理大臣なんて思いも寄らない話。冗談だと思っていたけど、和子さんが喜んでいたのが印象に残っています」
また高市家と家族ぐるみで付き合いのあった隣人女性が語る。
「回覧板を持っていったときに、和子さんはハサミを手に新聞の切り抜きをしていました。関節リウマチが悪化して『指がこんなんよ』と曲がった指をさすりながら、早苗さんが載った新聞や週刊誌の記事だけでなく、彼女に読ませるんだと、地元のニュース記事をこまめに切り抜いていました」
2013年に高市の政治活動を支えた父・大休さんが79歳で亡くなった。奈良県警を定年まで勤め上げた和子さんは、夫亡き後も、陰ながら娘を支えていた。
「早苗さんの選挙演説を聞きに行く和子さんと会ったことがあります。このあたりは坂道が多いでしょう。駅までの急な階段を上りきったところで『しんどい、しんどい』と休んでいた。どこかワクワクした様子だったので聞いたら、『これから早苗を見に行く』と話していました」(前出・和子さんの友人)
2018年には和子さんが永眠。享年86。晩年の和子さんは、車いすの生活だったという。
「高市さんに最期まで厳しく接していたのは『まだまだ、あんたはやれる』という思いが和子さんのなかにあったためかもしれません。一方、高市さんは母への電話さえ気が重かったと漏らしていた。
亡くなったあと『お母さんがさみしがっていたよ』と和子さんの友人に告げられたとき、高市さんはにわかに信じられなかったそうです。そしてもっと電話で話していたらよかったと悔やんでいました」(前出・大下さん)
それから3年後、高市は自民党総裁選挙へ初めて名乗りを上げた。
