■子どもたちに教えた指人形作りで衝撃の出会い。「あ、これだったんだ!」
’46年、終戦の翌年。露木さんは神奈川県藤沢市で生まれた。物心つくころには東京・浅草へ。やがて谷中へと移り住み、下町で育った。
戦後、父親が浅草で始めた婦人既製服の縫製工場は繁盛した。最盛期には住み込みの従業員が25人。自宅敷地内の工場にはミシンがずらりと並び、母は大勢の食事を切り盛りした。
「うちはね、ちょっと景気がよかった時代で、テレビを買うのも早かった」
浅草・光月町(現・台東区千束)。三社祭、ほおずき市、酉の市。祭りの多い町で、小学3年生までを過ごした。
「おとなしい子でしたよ。長男でね。よく“総領の甚六”っていうでしょ」
2人の姉と弟に挟まれた長男。活発な弟とは対照的に、ひたすら絵を描く子どもだった。幼稚園で描いたバンビの絵は、額に入れられ教室に飾られた。
「絵だけは誰にも負けないって、本気で思ってました」
だが、父は言い続けた。
「絵なんかで食っていけないぞ」
長男は家業を継ぐもの。自然と洋服屋になると思い込んでいた。
日本大学卒業後、家業を継いだ。時代は高度成長期。縫製工場は羽振りがよく、高級車を乗り回す同業者もいた。
26歳で結婚し、子どもも生まれた。しかし30代半ば、アパレル不況の波が押し寄せる。
「こんなに忙しい思いをしても儲からないなら、やめちゃおうって」
工場を閉じた後は、台東区根岸の縫製工場に再就職。高級ブランドのプレタポルテを扱う会社で、人事部長の肩書を持ちながら、裁断もミシンもこなした。
「そこで覚えた服作りが、いまの人形の服に生きてるんですよ」
会社勤めのかたわら、日曜は縫製工場の跡地で絵画教室を開いた。月謝は3千円。近所の子どもたちに、絵だけでなく粘土や紙細工も教えた。
「子どもの絵っていいんですよ。大人が思いつかない発想で」
自らも油絵を習い、展覧会にも出品した。しかし、周囲の作品がうまく見え、自分の絵がつまらなく思えた。
「自信がなくなっちゃってね」
50歳前後のある日。教室の工作で指人形を作ったとき、その面白さに衝撃を受けた。
「あ、これだったんだ!」
小さな顔にしわを描き、布で着物を仕立てる。指にはめると、まるで命が宿ったように動いた。
「人間を作ってるみたいで、とにかく面白かった」
絵では得られなかった手応えがそこにはあった。
「これなら人に負けない」
思い返せば、小学校低学年のころ。酉の市でひときわ目を引いたのも、笑う老人の指人形だった。
「面白くてしょうがなくて、どうしても欲しいと思ったんだ。あれが原点かもしれないね」
