「埋蔵金の話になっても…」徳川慶喜家・第五代当主の主婦(57)が学生時代は「玄孫を隠していたワケ」
画像を見る 約300坪ある徳川慶喜の谷中のご墓所。「正妻や側室に加え、仕えていた女性たちも一緒に眠っているのが慶喜らしい」(撮影:高野広美)

 

■教科書の偉人は歴史上の人物ではなく、私にとって、一人の血の通った人間

 

美喜さんは1968年6月25日、東京都生まれ。父親は自動車メーカー勤務、母の安喜子さんは専業主婦、兄2人がいる末っ子だった。

 

「練馬区で生まれたあと、父の転勤に伴い飯塚や甲府、横浜など転校も続き、小中高と公立校でした。体を動かすのは苦手で、中学は帰宅部、高校は吹奏楽部。勉強も、はっきり言って嫌いでした」

 

慶喜家第三代当主・慶光と妻の和子さん。和子さんの祖父は会津藩第九代藩主で、京都守護職なども務めた幕末の要人・松平容保。つまり、美喜さんは、慶喜の玄孫であると同時に、松平容保の玄孫でもあるのだ。

 

さて、中高生ともなると、歴史の授業で「慶喜」や「家康」の名も出てくると思うが、

 

「私にとって、教科書に出てくるのは歴史上の人物ではなく一人の血の通った人間、史実ではなく家族の物語でした。そもそも、『私だって歴代将軍の名前、全部言えないわよ』というのが本音。教室でも、慶喜の玄孫とはあえて言いませんでした。だいたいが信じてもらえませんし、徳川の名前が出ると、『えっ、埋蔵金があるの?』と、お金の話になってしまうのもイヤでしたので。そんなに財産はないですし、ふだんの生活を振り返っても、徳川家出身の母は、質素倹約を旨としていました」

 

「ただ、年に一度、わくわくするようなスペシャルイベントがあった」と美喜さんが話すのが、正月に家族で、妃が慶喜の孫である、高松宮両殿下へのご挨拶のため、御殿に伺うことだった。

 

「祖父の姉君が喜久子妃殿下でしたので。高松宮邸の大広間には美しいシャンデリアがあって、両殿下に新年の挨拶をすませて食堂へ行くと、お酒に国鳥のキジの肉が入った“おキジ酒”が振る舞われていました。皇族方のならわしがかいま見える雰囲気で、子供心に圧巻の美しさでした」

 

御殿に伺う前には、母・安喜子さんから厳しくこう告げられたという。

 

「子供は何かとやかましくするので、3つの言葉以外は話さないようにと。ご挨拶は『こんにちは』ではなく『ごきげんよう』、『ありがとう』は上から下に言う言葉だから『おそれいります』、何か声をかけたいときは『ごめんあそばせ』ですよ、と。御殿では大人の世界に入らせてもらうのだから分をわきまえなさい、という考え。いまとなっては、とても大切な教えだと私も思います」

 

高校生の美喜さんは、こんな夢を抱いていた。

 

「もともと英語は好きで、小学校低学年のころから、英語劇なども夢中で取り組んでいました。また人とのコミュニケーションも好き。ですので高校を出るころには、貿易を通じて世界とつながる仕事をしたいと思うようになるんです」

 

英国留学し、語学学校や当時のロンドンシティカレッジに通いながら国際船舶貿易について学んだ。

 

「キッチンとお風呂は共同のアパートで、本当に、貧乏留学生活でした。食卓にはお肉もあまり上がらないほどで……」

 

夢を追って勉学にいそしむなか、のちに夫となる山岸直人さん(66)との運命の出会いが訪れる。

 

「ロンドンで接客業のアルバイトをしていた友人が、さまざまな会に誘ってくれるのですが、そこではごちそうにありつけるんですよ。その友人の紹介で出会ったのが今の主人です。9つ年上で、商社勤務の駐在員で、BMWに乗ってやってきて。まあ、かっこよく見えますよね(笑)」

 

3年間の留学を終えて帰国すると、すぐに外資系商社の秘書アシスタントとして働き始めたが、同じころ、直人さんとの結婚が決まる。’93年2月に結納、3月に入籍、5月に結婚式を挙げたのち、退社。直人さんの仕事の関係で、再びロンドンでの生活となった。

 

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