■最愛の母が急逝。受け継がれたのは、「人として正義でありなさい」という教え
しかし結婚からわずか2年後、最愛の母・安喜子さんの危篤の報が届き、急ぎ帰国することになる。
「母は生まれつき体が弱く、私が中学生のころから腎臓の透析も始まり、体重も30キロを切っていたほど。私を留学に出すときも『これで美喜には会えないかもしれない』との思いで見送ってくれたのだと思います」
看取りには間に合ったが、’95年3月、脳幹出血により53歳という若さでこの世を去った安喜子さん。美喜さんはこう続ける。
「母は子供を持つことも、周囲から『病弱なのだから子供は1人のみ』と言われていました。どうしても女の子がほしくて、3人目まで無理して産んでいたのです。それが、私です」
母のその必死の思いを、美喜さんはいまこそよくわかるという。
「慶喜家の『葵の御紋』が入った母の着物。成人式のときに一度頼んだのですが、その際は『成人式ごときでは着せてあげられません』と、きっぱり言われていました。しかし結納でその着物を着せてもらい、さらに『帯留め』や『十三代今泉今右衛門の食器セット』を嫁入り道具としてもらったのです。『病身の母が娘にしてあげられる最後のこと』と、大事にしまっておいてくれたんですね。着物、嫁入り道具もそうですが、たとえ男性社会であろうと『脈々と受け継がれてきた徳川の文化や生活の中のしきたりをつなぐのは女性である』との思いが母なりにあったはずです」
家の名に恥じぬよう質素倹約を心がけ、いつも「人として正義でありなさい」「大事なのは、今日のごはんが食べられて、雨露しのげて、健康であることよ」と口にしていた母。
その教えは、また愛娘に受け継がれてゆくのだった。
(取材・文:堀ノ内雅一)
【後編】「遺産目当てだろう」と嫌味、実父からも裁判寸前…慶喜家“最後の当主”の57歳主婦軋轢にも負けず“家じまい”に奔走する理由へ続く
画像ページ >【写真あり】「子育ても介護も、お金じゃなく“ありがとう”のために働くのが主婦の原動力。もっと評価されるべきと思います」(他4枚)
