「立ち去れ、人類の古の敵よ、私はおまえを追い払う──」
男性の頭に手を置きながら神父が告げると、その瞬時、男性の目つきばかりか息遣いまで変わり、
「オレはこの男の体を乗っ取っている。こんな儀式など、オレには意味がない、効かないんだよ」
全身を震わせ、人格そのものが変わったようになり、神父に雑言を浴びせ続ける――。
これは、けっして中世ヨーロッパでの話ではなく、いまから10年前、関東のある教会で行われた悪魔払いの現場の再現だ。儀式を執り行ったのが、カトリック東京大司教区司祭の田中昇さん(49)。田中さんは、ふだんは東京都豊島区長崎にあるカトリック豊島教会で主任司祭を務める神父だが、実はもう一つの顔がある。それが、国際エクソシスト協会(AIE)が認定した“エクソシスト(悪魔払い師)”であること。
1970年代半ばに公開され、社会現象ともなるオカルトブームを巻き起こした映画『エクソシスト』や『オーメン』などの影響で、エクソシストといえばキリスト教の盛んな欧米のイメージがある。しかし、わが国でも古くから狐憑きや丑の刻参りなどの呪術的風習や民間信仰があったのは周知のとおり。
大団円を迎えたNHK朝ドラ『ばけばけ』でも、ヘブン先生(トミー・バストウ)を苦しめる金縛りを悪霊のせいと考えたトキ(髙石あかり)が住職にお払いを頼む場面があったが、そこでも「エクソスズミ」なる言葉が飛び出した。蛇足だが、映画『エクソシスト』の新作も来春公開に向けハリウッドで動き出している。
現在、イタリアだけで約300人、世界では1千人以上が存在する悪魔払い師。カトリックの伝統的な儀式を執り行う者として正式に任命され活動しているのは、わが国では田中さんだけ。つまり彼は、バチカンも認める、日本でただ一人のエクソシストなのだ。
「エクソシズム(悪魔払いの儀式)を望む人たちとお会いした際に共通して感じるのは、精神的な苦しみがより多い人生を歩んでこられているという点です。昨年10月にも正式な依頼を受け、エクソシストとして出動してきました」
田中さんは1976年(昭和51年)5月16日に群馬県で生まれ、子供時代を埼玉県本庄市で過ごした。
「父は建築士、母は公務員でしたが、私が物心つく前に両親は離婚していて、以降、祖父母に育てられました。お盆や正月など日本古来の伝統行事を大切にする暮らしぶりでした。私自身もゲームや公園での野球に夢中になるという、ごく普通の少年時代を送りました。
小2から夢中になったのが、フルート。コンサートでインパクトある演奏に出合い、子供心に『フルートってすごい』と感動して習い始め、その流れで中学時代の部活もブラスバンドでした」
小・中と地元の公立校で、成績は常にトップクラスだった。
「人助けもできるし、お金ももうかるので(笑)、いずれは医師になろうかなと、中学のころまでぼんやりと考えていました」
早稲田大学の附属高校へ進むと、進路の選択肢も広がっていく。
「当初はピラミッド研究で有名な吉村作治先生の講演がきっかけで考古学者を目指していました。しかし、千葉大学工学部の教授だった叔父の『これからは化学だ』というアドバイスで進路を変え、早稲田大学理工学部へ進学します」
入学後は迷わず早稲田大学交響楽団へ入団し、「いずれは化学者となり、フルートを趣味で続けていこう」と考えながら、学生会館の8階でフルートの練習をしていた1年生の秋のこと。
「ふと、窓の外に銀色に光る建物が目に入りました。数日後訪れてみて、文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会だと知るんです。出会ったシスターからカトリック入門講座に誘われ、そこで日本での信仰指導の草分けの、あるシスターのお話を聞いて深い感銘を受けました」
