初めて教会に足を踏み入れてから1年がたとうという1996年秋、田中さんは「洗礼を受けたい」と望むようになっていた。もともと幼いころから「神聖なる存在」への関心があったと振り返る。
「やはり、両親の離婚の影響が大きかったと思います。普通の少年の暮らしがあるいっぽうで、『親が幼い子供を置いて再婚するってどういうことなの?』との思いも強く抱いていて。十代のころから、この世のことは簡単に善悪では分けられないと感じていました」
久しぶりに離れて暮らしていた両親にも相談したところ、返ってきたのは、「もう20歳なのだから自分のことは自分で決めていい」との言葉で、大学2年で洗礼を受けた。卒業後は同大大学院で応用化学などの研究に励んだのち、就職氷河期にもかかわらず、総合化学メーカー・三菱化学に入社をはたす。
「最初は北九州の黒崎にある開発研究所に赴任しました。行ってみて驚いたのは、労働者の町のなかで、教会が古くから人々の生活の癒しの場になっていたんですね」
地元の黒崎教会を通じてホームレス支援の活動に加わったり、仕事の研修では自ら夜勤のある三交代勤務も体験。
「世の中には、社会のために夜中も働いている人がいるんだと知ったり。その生活のなかに信仰が根付いているのを目の当たりにして、いかにこれまでの自分の信仰は頭でっかちだったんだ、と」
やがて横浜の総合研究所に移りゲノム創薬研究の事業立ち上げに抜擢される。エリートが集う最先端事業部だった。しかし、
「新薬開発も大事だけど、一人のノーベル賞の陰に、どれだけの支える人や関わったものがあるのかと思うんです。名も残らない人の人生も、やっぱり大切なものではないかと」
その気づきが、田中さんを次のステップに導く。
「自分にしかできないことがあるのではないか、どうすれば人々の癒しに貢献できるだろうかと考え、神学校へ進むことを決意しました」
神学校は全カリキュラムを終えるのに最短でも6年という厳しい道のりだったが、それ以上に大変なのが再びの家族の説得だった。
「カトリックの神父は生涯独身を貫かねばならず子供も持てないため、祖父母たちの反発は覚悟していました。ですが……」
その覚悟自体がまだ甘かったことを、すぐに知ることとなる。
「報告と説得の手紙を書こうとしましたが、手が震えて文字が書けないんです。なんとか送ると、すぐに返事が届きました。『せっかく大変な時期によい会社に入れたのに、私たちを天から地に落とすのか』と猛反対の内容でした」
