これまで1万7千体のぬいぐるみを治療した箱崎なつみさん(撮影:高野広美) 画像を見る

【前編】「亡くなった母を見ているのかも」ぬいぐるみ専門クリニックを“保護者たち”が訪れる「切実な理由」から続く

 

「縫い」「包む」が語源とされている“ぬいぐるみ”。最近では「ぬい活」という言葉も流行しており、お気に入りのコを旅行先やレストランで記念撮影している姿もよく見かけるようになった。今回注目したのは、開業以来10年間で1万7千体を治療した、ぬい専門のクリニック『杜の都なつみクリニック』院長の箱崎なつみさんと、クリニックを訪れた依頼者たち。取材を通じて、ぬいぐるみたちが、大切な縁を縫い、温かな思い出を包む家族であることを、あらためて感じた。

 

「このコたちは、入院中のコの付き添いで来てくれています。患者さんが寂しくないように、という保護者さんの思いが込められているんです」

 

『杜の都なつみクリニック』の箱崎なつみ院長(40)がこう話す。

 

白黒のパンダ、ピンクのサル、若緑のカエルなどが肩を寄せ合う待合室で、折り目正しい白衣が彼女の清潔感を引き立たせている。

 

「私自身、小学生のころから手先が器用だと自覚していました。母からはお菓子づくり、父にはプラモデルづくりを教わりました」

 

’86年1月23日、東北の一大都市・宮城県仙台市で長女として生まれた箱崎さんは、4歳下に弟がいる2人きょうだいだ。父(72)は会社員、母(65)はパートやアルバイトをしていた。

 

全長100メートルの仙台大観音を間近で仰ぐ実家には父方の祖父母がいて、そこで7歳まで暮らしている。

 

「物心ついたときから、祖母に針仕事を教わっていたんです。祖母は編み物、縫い物が上手で、町の人に仕事として頼まれていました。私は2~3歳で巾着袋は縫えるようになっていました。ですので、最初の洋裁の先生は祖母です」

 

実家で教わる技術を器用な手先で生かし、学校では教師からよく褒められたという。

 

「自己肯定感も持て、褒められることが私の糧になりました」

 

仙台育英学園高校3年時、4年制大学進学は選択肢になく、「洋裁かパティシエかで悩んだ結果、わけても好きだった縫い物の道」を選んだ。

 

仙台市内の専門学校で3年間学び、より専門的なテクニカル科まで修めて卒業。’07年、東北一の規模の洋裁洋品店に就職し、婦人服のオーダーサロンで勤務することに。

 

「その後、’10年には洋服修復店に勤めることになりました。洋服、カーテン、インテリア、バッグなどのお直しに加え、ぬいぐるみ修理というメニューがあって。そこで、はじめて私は、ぬいぐるみの中綿を出して、中身がどうなっているのかを知ったんです」

 

洋服でもバッグでも、お客さんは大事な持ち物を修理してもらったことに感謝する。だが……。

 

「ぬいぐるみは、お渡しするときのお客さまの反応が違いました。『本当にありがとうございます!』と、泣いて喜んでくださる方もいたほどです」

 

そこで箱崎さんは痛感した。

 

「ぬいぐるみを預ける方は、家族を入院させている思いなんだ。すると修理は治療。あんなに喜んでくださるのは、ご家族が元気になって退院されるからなんだ!」

 

彼女は「ぬいぐるみ修復を突き詰めたい」という希望を抱くように。

 

「ただ当時は会社の方針がありました。『ここまでがお直しできる範囲で、ここから先はお直ししてはいけない範囲』というように」

 

会社に技術体系がなかったというより、当時は「ぬいぐるみ修復」という分野が未開拓だったのだ。

 

「でも私は特に立体の見取り図を頭で瞬時に描くのが得意で、ぬいぐるみの全体像から細部にわたるまで『もっとお直しできる』という思いが強くなっていきました」

 

独立の夢を描き始めた矢先の’11年3月11日、仙台市で東日本大震災に被災する。幸い、家族、親戚、近しい友人に命を落とした人はいなかったが、

 

「食べ物に困り、ライフラインに困り、一生元に戻らないんじゃないかと思うくらい、生活が一変しました。『この先どうなっちゃうんだろう……』って。

 

そのいっぽうで、『震災をくぐり抜けたからこそ、新しいことにチャレンジしなきゃ』という思いに駆られました」

 

丸3年かけて独立に向けて貯蓄し、計画を練ったという。

 

「開業資金300万円がたまるまで、毎日食パンや、醤油をかけた豆腐を食べ、おかずも、もやしと油揚げだけの炒め物とか……」

 

仙台の城下町で、祖父母のいる実家で料理や洋裁を覚えたというから、記者は“箱入りのお嬢さん”と思い込んでいたのだが、

 

「実は7歳で両親とともに実家を離れたあと、高校時代あたりまで、ライフラインを止められるような生活でした。料金の未払いのためです。父がいろいろ事業を起こしては失敗するような状態で。おかげで“貧乏暮らし”をすでに経験していたんです」

 

ヨモギやフキなどの野草を摘んでおかずにし、ロウソクの明かりで過ごすことも苦ではなかった。

 

「さすがに、すいとんだけだとおなかが減って仕方なかったですが」

 

そんな少女時代の経験があったからこそ、厳しい節約生活にも耐えることができたのだろう。

 

専門学校時代の学費の多くは「祖母が賄ってくれた」という。祖母にしてみれば、自身の洋裁の腕を隔世遺伝したような孫娘に、夢を託したかったのではないか。

 

《ぬいぐるみの修復に抱いた理想》《震災で芽生えたチャレンジ精神》、そして《箱崎家の女系で継いだ、芯の強さ》、これらが三本の矢となって、’16年の「なつみクリニック」開業が実現したのである。

 

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