「みんな死ぬぞ」と言ってガスの元栓を…父の戦争トラウマに苦しめられた女性明かす“心の傷”は世代をこえる
画像を見る 戦争トラウマについて語る美千代さん(撮影:福森クニヒロ)

 

■父の死にバンザイを

 

「戦争トラウマは本人だけでなく、子ども(2世)や孫(3世)にも連鎖することが、近年の研究でわかってきています」

 

美千代さん自身も、その影響に長年苦しんだ。父から受けた性的虐待も、その背景にあったという。美千代さんが9歳の春。

 

「母は3歳下の妹だけを連れて家を出ました。父との離婚が成立したら、母は、私と兄を迎えに来るつもりで準備をしていたんです」

 

残された父は、さらに酒量が増えていった。

 

「ある日、母が心配して夜に私たちの様子を見に来ると、父が幼い私に覆いかぶさろうとしていたそうです。私はしばらく叔母の家に預けられました」

 

幼い美千代さんには、父から受け続けた行為の意味がわからなかった。ただ、「気持ち悪い」「嫌だ」という感覚だけが心に刻まれた。

 

その年の秋、離婚が成立し、父のいない暮らしが始まった。しかし父は酔って何度も新居を訪れ、そのたびに母が追い返したという。

 

「忘れもしません。師走の寒い夜でした。その日も家にやって来た父は、珍しく酒の臭いがしませんでした。私たち子どもを前に並べ、私の頭を何度もなでながら、『美千代、許してくれ』と泣いたんです」

 

それから約2カ月後、父は47歳で自ら命を絶ってしまう。だが母は、子どもたちには「病気で亡くなった」とだけ伝えた。

 

「私は本当のことも知らず、『やった! お父ちゃん死んだ! これでゆっくりご飯が食べられる』って、兄と一緒にバンザイしました」

 

しかし、父が亡くなっても、美千代さんが安らぐことはなかった。

 

「もとから厳しい母でしたが、『ひとり親だからと差別されないように』と、以前にも増して私に厳しく接するようになりました」

 

さらに、兄は「お父ちゃんとお前がしていたことは知っているぞ」と言って、夜になると美千代さんの部屋に忍び込んでくるように。しかし、母は助けてくれなかったという。身を守ろうと襖を開け放して眠っても、母は見て見ぬふりですぐに閉めてしまうことの繰り返しだった。

 

「家を出たい。その一心でした」

 

高校卒業後、母の反対を押し切り、大阪で保育士になった。

 

「幼いころ、泣いている私を抱きしめてくれた保育士の先生がいたんです。私も、あんな大人になるのが幼いころからの夢でした」

 

念願かなって保育士として働き始めたころ、親戚から思いもよらぬ事実を告げられる。

 

「お父さんは首つりやったんや」

 

最後に父が来たとき、冷たく接してしまった。そのせいで父は死んだのではないか、私が見殺しにしたのではないか。美千代さんは自分を責め続けた。

 

その後、21歳で結婚し子どもを授かったが、自らの家庭も安らげる場所ではなかった。夫婦関係はすれ違い、夫から暴力を振るわれることもあった。仕事と家事の両立、夫との不和。ある日、美千代さんは感情を抑えきれず、「お母ちゃん、お母ちゃん」と慕ってくる幼いわが子を「うるさい!」と突き飛ばしてしまった。

 

「娘の小さな体が玄関ドアまで飛びました。それを見た瞬間、『私は親と同じことをしている』と愕然としたんです」

 

自分の中にも暴力の連鎖がある。そう悟った美千代さんは29歳で離婚。虐待や性暴力について本や学習会で学び、生きづらさの原因を探るなか、あることに気づく。

 

「オリバー・ストーン監督の映画『天と地』を見ました。戦場の記憶に苦しみ、悪夢で飛び起きるベトナム帰還兵が父と重なり、『父も戦争のPTSDだったのでは』と考えるようになったんです」

 

しかし、父はすでに亡くなっていて確かめることはできない。

 

「今さら考えても何も変わらない。父のことは永久凍土に埋めよう。そう思い、30年近く目を背けていました」

 

それでも幼いころの記憶は不意にフラッシュバックした。

 

「夏場にミストが『シュー』と噴き出す音を聞いた瞬間、父がガスの元栓を開けて『みんなで死ぬぞ』と言った場面がよみがえり、パニックになったことも……」

 

そんなとき、そばで寄り添ってくれたのが30代後半でパートナーとなった藤井幸之助さん(65)だ。

 

「彼は、私が何度同じ話をしても、『大変やったんやね』と受け止めてくれたんです」

 

初めて、相手の顔色をうかがわずに暮らせる日々だった。

 

次ページ >父の死から55年…父の軍歴を調べて初めて知った“絶望”の抑留生活

【関連画像】

関連カテゴリー: