「みんな死ぬぞ」と言ってガスの元栓を…父の戦争トラウマに苦しめられた女性明かす“心の傷”は世代をこえる
画像を見る 戦争トラウマについて語る美千代さん(撮影:福森クニヒロ)

 

■父の死から55年…父の軍歴を調べて初めて知った“絶望”の抑留生活

 

さらなる転機は2023年、美千代さんが64歳のときに訪れる。初めて大阪で開催された「家族会」に参加したのだ。

 

「それまでは、父のことは『うちだけの問題』だと思っていましたが、会場では参加者が『父も戦争から帰って別人になった』『家族が壊れた』と、自らの体験を語っていました。『家族会』代表の黒井秋夫さんが『これは個人の問題ではありません。社会の問題なんです』と話されたんです。その言葉を聞いた瞬間、『やっぱり戦争なんや』と確信しました。私だけじゃなかった。この問題は、社会に伝えていかなければならない、と」

 

さっそく父の軍歴を取り寄せた。厚生労働省から届いた30枚超の軍歴資料には、19歳で海軍に志願し、終戦後はシベリアで約3年間抑留された父の足跡が記されていた。

 

「父は、ハバロフスク地方のムーリーの収容所付近で、線路に敷く砕石を作る作業をしていたことがわかりました。その後、鉄道で200キロ以上離れた港町・ワニノへ移り、日本兵捕虜が建設した港の工事にも従事していました」

 

抑留生活の中で、父は何を思い、何を背負って生きていたのか──。

 

その答えを探すため、美千代さんは2025年10月、シベリアへ向かう。シベリア鉄道に乗り継ぎ、父が抑留された収容所跡を訪ねた。

 

「車窓から見た景色が忘れられません。気が遠くなるほど続く白樺林。父も、この景色を見ていたと思ったら、父の孤独や絶望が一気に胸に迫ってきて……。仲間が次々亡くなるなか、自分が生き残った罪悪感を、帰国後も背負い続けていたのではないか、と──」

 

このシベリアの旅は、今年3月に公開されたドキュメンタリー映画『父と家族とわたしのこと』にも収められている。戦争が父を変え、母を巻き込み、傷が子どもたちへ受け継がれたと実感した美千代さん。それでも「父の暴力は許せない」と語る。

 

「父が暴力的になった背景は理解できました。でも、父のしたことは絶対に許されることではない。それを許せば、戦争が生んだ暴力まで許すことになる。それだけは絶対にしてはいけないと思います」

 

■シベリアの地に響いた「お父ちゃん」

 

記者は7月初旬、絵本とハーブティーの店「オリーブガーデン」(大阪市)を訪れた。前出の藤岡美千代さんが営んでいるカフェだ。

 

こぢんまりした店内には、美千代さんおすすめの絵本やカエルの置物、雑貨が所せましと並ぶ。

 

「私、カエルが好きなんです。子どものころ、親にかまってもらえなかったから、よく近所の家に遊びに行っていたの。その家にあったカエルの絵本が大好きで、開くたび私を迎えてくれているような気がしたんです」

 

50歳で30年間続けた保育士を辞め、「オリーブガーデン」を開いた美千代さん。「カエルが好き」と話していたら、お客さんが次々とカエルの置物をプレゼントしてくれるようになった。

 

美千代さんは1カ月に一度、この店で戦争トラウマを経験した女性限定の会を開いている。参加者は、多いときで6~7人。40代から80代までと幅広い。

 

「最近は、私がシベリアを訪ねたドキュメンタリー映画を見て、参加してくださる方も増えました」

 

美千代さんの目には、今もシベリアの風景が焼き付いている。

 

「村長さんが父がいたらしい収容所跡を案内してくれました。岩山と白樺、湿地帯が広がる殺風景な場所で、どこまでも同じ景色が続き、希望まで失ってしまいそうな場所でした。冬は深い雪に覆われる中を、捕虜たちは30~40キロ歩いて労働現場へ向かったそうです」

 

記憶を封印したはずの父だった。それでも美千代さんはシベリアの地で、思わず「お父ちゃん!」と叫ばずにはいられなかった。

 

「ウクライナとの戦争が終わったら、必ずこの地に、(家族会のシンボルの)白旗を立てに来よう」

 

美千代さんはそう誓い、村長と固くハグを交わした。

 

(取材・文:和田秀子)

 

【後編】「うちだけじゃなかった」戦争トラウマに苦しむ復員兵家族たち、2世や3世へと広がる共感と平和への願いへ続く

 

画像ページ >【写真あり】15歳から島津製作所で働き、19歳で志願して海軍に入った父・石松さん(他2枚)

【関連画像】

関連カテゴリー: